ほぼ日カルチャん

ゴッホとヘレーネの森 クレラー=ミュラー美術館の至宝

映画

0023-2

人生の「救い」はなにか?

カッツミー

0023-2

世間からなかなか認められず、
生前は成功が叶わなかった不遇の画家、
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。
彼が後年になって評価されることになったのは、
弟のテオの惜しみない協力や、
テオの妻であるヨーの尽力が大きかった‥‥

というのが、僕の中での、
ゴッホやその周辺にまつわるざっくりとした認識でした。

しかしこのドキュメンタリーを観て、
彼の遺した作品をこよなく愛した
収集家・ヘレーネ・クレラー・ミュラーの存在と
その功績を、はじめて知ることができたのです。

ヘレーネは、
裕福な家庭の生まれにもかかわらず、
ゴッホが描いてきた、
「金銭的な豊かさとはむしろ逆のモチーフ」にこそ
心を奪われ、作品収集や、
美術館の設立に尽力したそうです

話が展開するにつれ、
生きた時代すら異なるふたりの人生が、
どこか呼応しあうように重なって見える場面が
いくつか登場するのですが、
そのうちのひとつが「手紙」でした。

ふたりは共通して、
生前、大量の手紙を残していました。
その内容から、かれらの人生観のようなものを
読み解くことができるのですが、
ゴッホの絵画にたいする取り組みかたで興味深かったのは、
「人を喜ばせるために絵を描いているのではない。
深い悲しみや、そこに内包する魂の深淵を描いている。」
という部分でした。
そして、ヘレーネもまた、ゴッホのそういった視点にこそ、
敬意と愛情を注いでいたように感じます。

最近ここ日本で、「表現の自由」についての議論が、
たびたび巻き起こっているように感じます。

「表現の自由の下では、なんでも許されるのか?」

「人を不快な気持ちにさせたり、
不安な気持ちを呼び起こさせたりするものは、
はたして芸術と言えるのか?」

現代でそのような問題提起がなされる一方で、
100年以上前にゴッホが描いていたのは、
一見苦悩に満ちた人生を送るひとびや、
ふつうは気にもとめないような素朴なモチーフだったり、
「当時の大衆を素直に喜ばせるようなもの」では、
ありませんでした。

そういった、当時は無きものとして扱われていた作品群が、
ヘレーネのような収集家たちの手によって光が当てられ、
現代の自分たちの心を打つ芸術として紡がれている。
それ自体がとても感動的ですし、
同時に、いま起こっている議論を、なんだか
より立体的な視点で考えてみるきっかけになりました。
そういった意味で、この「ゴッホとヘレーネの森 」は、
今観る価値がとても大きな一作だと思います。

くわえて、映画のラストで浮かび上がるのは、
苦悩・悲しみにまみれた人生を送ったゴッホにとって、
「絵を描くこと」そのものが、彼にとっての救いというか、
一種のセラピーとしての役割を果たしていた、
ということでした。

それは、つきつめると、
なにか打ち込めるものがあることの肯定や、
好きなものがあるという喜び、という、
生きることの本質に触れるようなものかもしれません。

そういう視点で振り返ると、ゴッホの人生は、
世間がイメージしているように、
「不遇」と単純化して良いものではないのかもしれない。
そんな事を考えながら、
この作品の感慨にふけりつづけています。

基本情報

ゴッホとヘレーネの森 クレラー=ミュラー美術館の至宝

2019年10月25日(金)〜
新宿武蔵野館他全国ロードショー

配給:アルバトロス・フィルム
2018年/イタリア

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