SHIRASU

<10年後の特殊能力>

 みなさん、お元気でらっしゃいましたか。
毎日の「ほぼ日」に
「へえぇー」だの「ほぉー」だのと感心したり、
思わず笑ってしまったり、
留吉さんの「生茶」のおさるを何度も座らせてみたりする
すっかり読み手モードに浸りきりの近ごろの私でしたが、
はっと、書き手モードに移行することがございました。
今日は、その辺りからおつきあい戴きたいと存じます。

それは
「西洋絵画って立体的に見えるのは、
光や陰が描かれているからで、
日本画が平面的に見えるのは、
それらが描かれてないからなんじゃないの」
と気づいたことが、きっかけでした。

その後、どうして一方は光や陰を描くことを選び、
もう片方は、なぜ選ばなかったのかと考えを進めるうちに、
日本画の中でも仏教美術、つまり、仏様の所には
後光などの形で光が描かれている例を
例外として思いつきます。

それから、さほど時間がかからないうちに
思想が関与しているのでは、の見方にまで発展させまして、
キリストが、たった一人の絶対的な存在とされることと
西洋絵画は光源がたった一つに限られていることに、
何らかの結びつきがあるのでは、に至ったわけです。

日本に、もともとあったとされる神道は、
八百万の神々に対する信仰です。
花や鳥や、その他もろもろの
あれにも、これにも、どれにも、それにも
全てのものに神が宿ると考えますと、
全てのものから光が放たれている状態となるわけで、
もちろん、陰もできやしません。

立体的に見せる西洋絵画に比べ、
一見すると薄っぺらなものに映りがちな日本画です。
ですが、ありとあらゆるものの発する光を現わすために、
逆に、敢えて光や陰を排除するやり方を
選んだのではないかと思った時、畏敬の念さえ持ったのです。

ところで、
「素人のよさなんてものは、ほんとうはないのです。
もしあるとすれば、それはその人の人間のよさです。
人間的に、れっきとした玄人であるのです。」
この白洲さんの言葉が、ここのところ、
気になって気になって、仕方がありませんでした。

「作品」「芸」というものは、
結局は「その人そのもの」に
集約されるのでは、ないのでしょうか。
となると「よいもの」を造り出すということは、
すなわち「人間のよさ」をも追求することになるわけでして。

生まれてきた瞬間に全ての人は、
光を発することのできる存在となるのでしょう。
ただし、玄人と言われるまでの強い光を放てるようになれるかは、
その人がどう生きたかに、係ってくると思うのです。
白洲さんのこの言葉を、私は、このように解釈しました。

一人一人が光を発する存在ということは、
裏返せば、一人一人が
よいことも悪いこともの基準を自分自身で考えて、
設定しなければならないことでもあるのです。

「相手の立場に立てる」ということは、
あまりに漠然としすぎております「人間のよさの追求」の中で、
具体的に揚げられる一つのことだと思います。

直接聞けば早いのに、相手の気持ちを推し量るなんて、
まどろっこしすぎると思われますか。

相手の気持ちを推し量るより先に
確かに、ケータイ電話などの
手っ取り早くすませられるための道具がたくさんある、
今という時代です。
ですけれど、「手っ取り早く」ばかりを行っていると、
『あ・うん』の呼吸がなくなる危惧を拭えない気がするのです。

今から10年後、
「気が利く」ことや
「相手の立つ瀬になれる」ということに長けていること自体が、
ある種の特殊能力扱いされることになるやもしれません。

決して、懐古趣味でも博愛主義でもありません。
「相手の立場に立てる」ということは、
絶対的な存在のもとで罪や罰や恩恵があるからではなく、
一人一人が光を発する存在であったからこそ
生まれたのではないのでしょうか。
それが、なくなってしまっては、もったいないと思うのは、
私だけなのでしょうか。

それでは、今日はここまで、です。

2000-06-17-SAT
SHIRASU
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