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<すごいことは、すごい> みなさん、 ご機嫌うるわしく、お過ごしでらっしゃいましたか。 またまた、たくさん ご自分の立場でご自分の考えを ご自分の言葉で語られたメールを頂戴いたしまして、 ありがたかったです。 ありがとうございました。 私が、すっかり、のんびりモードの間に、 とても大事そうに壷を抱えたおさるの かわいいアイコンも作っていただきました。 先ほども見にいって、帰ってきたところです。 寄り道から戻ったところで、 それでは、本編へ参ることにいたしましょう。 ご存じの方もたくさんいらっしゃることと思いますが、 白洲さんが、 アーティストや作家など『される側』の方に たくさんお手紙を書かれたり、 お電話をかけてらしたことに、今日は着目してみました。 先日、通りがかった横浜で 陶芸家、「富本憲吉展」が開催されておりました。 富本先生は、人間国宝でらした一方、 先生が造られたひな型を工場に渡し 忠実な複製を造らせる方法で、 晩年「富泉」の銘の日常食器の大量生産もなさいました。 以前、美術商の方とのお話しに「富泉」がのぼった際、 「先生の作品とは、ぜんぜん違うでしょ」 と、言われたことがありました。 一方が、 人間国宝の手によって造られた作品であることに対し、 もう一方は、 いかに忠実とはいえ、大量生産されたものです。 双方が違うことは、頭では、はっきりわかったのですが、 「はい、本当に」 とは、その時の、そして今も、答えることはできません。 おそらく、美術商の方の目に明確に見えてらした両者の違いが、 私には、ちっとも見えていないからなのです。 ところで、 みなさんにとって「人生の醍醐味」は、 どのようなことですか。 私にとってのそれは、 「すごいことを、すごい、と言える」ことなのです。 人にせよ 物にせよ、 本にせよ、 「すごいもの」の中には 「すごいこと」が最初から存在していると思うのです。 ですから、同じものを見ていても 見る側の度量によって、 「見える深度」が深くなったり、浅くなったりするのでしょう。 逆に言えば、見ているものに こちらの度量を試されているというわけです。 対他人ではなく、自分一人のことを考えてみましても、 出会った時期によって、 同じものをずいぶん違って捕えられた という経験はありませんか。 「前は見えなかったものが、 最近見えるようになった」とは、 結局は、見る側の成長によるところだと思います。 人に説明を受けて理解できたつもりになっていても、 悲しいかな、人は自らの経験の中でしか、 本当には理解できないものが、たくさんあると思います。 生憎、マニュアルがございませんので、 すべったり、ころんだりをくりかえして、 体得するより他に方法はない気がいたしますが、 深い経験が他の場において応用できることもあります。 もしかすると、これが前に少しふれました 「活かす」ということなのかもしれません。 ですから、わからないことに出会った時も、 安易に今の自分がわからないからと ゴミ箱に捨ててしまうのではなく、 心の引き出しにしまっておいて、 時々は取り出して 埃を払ってみるようにもしております。 幸いなことに「すごいこと」は、 「見る側」の成長を待っていてもくれるのです。 日々成長し続けられる場にいらっしゃる 『される側』の方々との距離を一定に保つため、 『してあげる側』も成長することが必要となります。 我らが白洲さんは、 『される側』の方が、どのような想いで表現なさったかに 至近で近づくことができるほど、 深いところが見える目をお持ちになってらっしゃいました。 「すごいこと」に出会われた白洲さんは、 「すごい」と思った気持ちが萎えないうちに、 「すごいこと」の表現者である『される側』の方々に どこかどうすごいかをお手紙やお電話で、 伝えられたのではないでしょうか。 人一倍「すごいこと」に 出会われたであろう白洲さんですから、 おのずと、お手紙もお電話も頻繁になったと、 私は想像いたします。 「すごいこと」は世の中に、みちあふれているのです。 私は、少しでも多くの「すごいこと」に出会い、 そのたびに、 ボロボロと目から鱗を落し続けたいのです。 それでは、今日はここまで、です。 |
2000-05-30-WED
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