SHIRASU

<私が私である覚悟>

 たくさんメールを下さった上、
 白洲さんのことをよくご存じの方も
 最近知ったといわれる方も、
 みなさん、あたたかく迎えて下さって
 本当にもう、ありがとうございました。
 うれしかったです。
 「ドン」と私が書いたものに
 みなさんが「パッ」と反応して下さって、
 さながら、今年最初の打ち上げ花火のようでした。

 さてさて、
 それでは本題に参りましょう。

 私が白洲さんを「すごい」と思う気持ちの中には、
 作家やアーティストの方など
 つまり『される側』の方々も
 「白洲さんのことを大事に思ってらっしゃる」
 ことへの憧れもある気がいたします。

 できれば、
 ご自分のお好きな作家やアーティストの方が、
 ご自身のことをご存じで、
 しかも大事に思っても下さっているところを
 想像してみては、いただけませんでしょうか。

 ・・・・・・・・。

 はい。
 おつきあい下さいまして、ありがとうございます。
 いかがでしたか。
 なんとも、贅沢なうっとりとする気分に
 浸られたのではないでしょうか。

 それでは、
 なぜ、白洲さんは、そういった存在だったのでしょうか。
 私は『される側』の方のことを考えることが、
 白洲さんの魅力に迫る最短距離だと考えました。

 『される側』の方は、
 言葉にしたり、形にしたり、歌にしたり、
 その他諸々、表現方法に違いはありますが、
 自らの想いをなんらかの手段を使って
 他の誰かに伝えることができる方々だと思います。

 優雅に泳ぐ白鳥の様が、
 羨望のまなざしで見られる才能だとすると、
 その一方で『される側』の方は、
 実はバタバタと、一生懸命動かしている
 水面下の足にあたる、
 まったく別の部分もお持ちになったりもします。

 人として生まれてきたからには誰しも一度は、
 「俺って、どこから来たんだろう」
 だとか
 「私って、どこへ行くんだろう」
 ひいては
 「私って、なにものなんだろう」
 などと悩んだことがあるはずです。

 多くの方は考えても考えても、
 ちょっとやそっとでは答えが出ないことに
 そのうち気づき、同時に
 面と向かわないで上手にやり過ごす術も
 身につけていくわけです。
 ところが、いつまでたっても
 その術が身につかない人たちがいるのです。
 それが『される側』の方なのです。

 表現することができるから悩むことになるのか、
 悩むから表現方法を模索することになるのか、
 どちらが先かはわかりませんが、
 とにかく悩みに悩み続けると
 言い切ってしまえると思います。

 前述の
 「私って、なにものなんだろう」
 の次が
 「私って、なにものなんだろうと考える私って、
  一体なにものなんだろう」
 になりがちな恐ろしい闇に、
 引きずりこまれないよう気をつけながら
 隣り合せで生きていくことは、
 とてつもなく、大変なことだとは思いませんか。
 強い光りによってできる陰が濃いように、
 強い光りを放つ人であればあるほど
 背負う闇も深く深くなっていくのです。

 『される側』の方が大成なさった後、
 『してあげる側』にスイッチされるのは、
 この苦悩を自らの体験によって
 よくわかってらっしゃるからでは、ないでしょうか。

 「私って、なにものなんだろう」
 の答えは
 「私は私である」
 という覚悟でしかないような気がいたします。

 白洲さんは、ご存じのように骨董に携われた方です。
 他の人がどう言おうが、
 いい切れる強さが必要となる場面に
 再三、出会われたであろうことは想像できます。

 「誰のものでもない私の人生がある。」
 この白洲さんの潔さこそが、
 『される側』の方に
 たくさん勇気を与えられたのだと思うのです。
 
 かっこいいです。白洲さん。
 ブラボー、白洲さん。
 
 それでは、今日はここまで、です。

2000-05-11-THU
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