KAGUCHI
カナだから、の手紙

臨時第4回

えー、ご迷惑でしょうが、またまた臨時版です。
今回も「カナだから、の手紙」は、取材でお送りします。

カグチヒナコさんの風邪は治ったようです。
いろいろ治療の方法など教えてくださった皆さま、
ありがとうございました、と。
「劇評とかも出はじめたのよ」
とか、いろんな人たちが観に来てくれてる、
というようなことで、機嫌もいいようです。
とにかく、あたってようが外してようが、
「ほめられるのはなんでも悪い気はしない」
と言い切るカグチさん、
疲労のピークも過ぎたようで、
帰りにミソパンを買ってくるとか、
ごはんをつくるとかいうことにも気持ちが向いています。

受験生のいる家庭とかと、よく似た状況ですが、
そのたとえで言えば、模擬試験で「合格ライン」に
到達した受験生のいる家庭というような感じでしょうか。
カワハギを食べそこなったことに、
やや残念であるというような気持ちはあるものの、
この冬はじめての「ふぐちり」で気を取り直しました。
「次は、行く!」と、短いことばで、
カワハギ釣り参加の決意を表明したことのなかに、
社会復帰への手がかりが見えてきたと言えましょう。

現場からのレポートを終わります。
ここから先は、また、間借りです。
「下北沢・本多劇場」の楽屋で、竹中さんや岩松さんに、
「おもしろかった」と言っていただけのワタクシですが、
単なる楽屋見舞い以上の御礼をしておりません。
『水の戯れ』の感想のようなものを、
ワタクシなりにここに書くことで、
スタッフ・出演者の皆さまへの御礼をさせていただきます。

---------ここから、間借り人のコーナー-------------

◆竹中直人の会・公演「水の戯れ」<下北沢・本多劇場>

自律神経系のことばをどうすればいいのか。 
---劇評としてではなく、岩松世界のこと

ぼくにとっての「水の戯れ」とは、
劇作家・岩松了が「ことばと格闘する戦場」の見物だった。

岩松了が、徹底的に「日常」の風景、日常の人物を
描き続けていることを、いままでの観客は、
どうとらえていたのだろうか。
彼の持ち味であるとか、美意識であるとか、趣味だとか、
考える人も多いだろう。
そういうふうに観ても、
岩松作品はたのしめるのかもしれない。
ただ、ぼくは、それはちょっとちがうと思うのだ。
岩松了の描く「日常的なもの」のなかには、
郷愁が混じり込んでいない。

あの頃はよかった、でも、懐かしいなぁでもいいのだが、
日常を表現しようとする作家たちが、つい、
現在の「いやなかんじ」を利用して、
郷愁という「納得のジョーカー」のようなカードを、
考えなしに(あるいは戦略的に)切ってしまうことがある。
おなじ趣味で舞台と観客がなじめれば、
それはそれで、ひとつの成功なのだから、
ぼくはそのやり方を卑怯だとは言わないけれど、
「やってておもしろいか?」という意地悪を、
言いたくなったりするものだ。

小津安二郎の映画だって、
いま観れば郷愁が感じられるだろうが、
その時、小津の生きていた時代には、
じゅうぶんなくらいに「いま」だったはずだ。

岩松了が「日常」を選び続けている理由は、
そこが「じぶんのいる場所」であるからに他ならない。
「じぶんのいる場所」を観察し、考え、
表現することができないとしたら、
どうやって生きていいかもわからないじゃないか。
ぼくの考える岩松了の世界は、
だから、とても切実な世界である。

ぼくもいる、岩松了もいる、現実の世界は、
「あぶなっかしくて不細工な構造の建物」である。
高さも広さもたっぷりだが、
どうやって立っているのかさえもよくわからない建築だ。
それが、ことばを材料にして立っていることだけは、
わかっている。
数学のことば、法律のことば、科学のことば、
事務のことば、ビジネスのことば・・・
あらゆるものやことが、ことばの組み合わせで、
組み上げられ、もたれあい、支え合って、
なんとか構造物としてできあがっているわけだ。

当然、そこに生きている人間どもも、
ことばで、じぶんたちの社会を組み立てている。
私の名前は、竹中直人だ。私の職業は仕立て屋だ。
私には兄がひとりいる。彼の名前は串田和美だ。
私の弟は死んだ。弟には妻がいた。
その妻の名前は樋口可南子だ。
という具合に、ことばという材料を組み合わせていくと、
ひとりの人間の世界像は、だんだん明らかになってくる。

ところが、問題は、かたちのわかりにくい材料
としてのことばがあるということなのだ。

「愛している」、はそのうちでも
もっとも難物と言えるものだ。
「愛している」ということばを、
上手に使って組み立ててある世界もある。
しかし、よく見えない、
不定形とさえいえるような材料で、
例えば男と女が「つがい」になることに、
不安を感じる人間だっている。
ほんとにちゃんとくっついているのだろうか、
と、考えはじめたら、不安になるに決まっている。
だから、安定のいい「法律のことば」で、
「愛」を固定してみたり、
その不安定なつながりをパイプにして、
贈り物を届けてみたり、
相手のよろこびの表情や、そぶりから、
愛ということばがしっかりと機能していることを、
確かめようとするのだ。

竹中直人の演じる仕立屋は、
「つがい=夫婦」の間をつなげることばが、
どうも「たしかでない材料」であると、
疑いを抱いてしまう。
彼が、じぶんの技術と布地の品質で、
「たしかに在る洋服」をつくりつづけてきた
(工業的な職業である)職人であることと、
それは関係しているのかもしれない。

弟の嫁という立場であった樋口に好意を抱いたときには、
その「愛」ということばを
試すことも確かめることも、不可能だったので、
疑いをもたずに済んでいた。
愛が、好意という形態をとっているときには、
それは一方的な放射線にしかすぎないわけだから、
通じていないことも、反射が返ってこないことも、
そのことばを疑う理由にはならない。
好意は、たしかにあると、主観的に言い切ってかまわない。

ところが、未亡人となった樋口は、
「愛の可能な女」である。
竹中の仕立屋は、好意を「愛」に変換しようとする。
じぶんの技術と、じぶんの時間で彼女のドレスを縫い、
「受け取り可能な好意」を準備するし、
「一緒の家に暮らす」ことを提案し、
客観的には「つがい」に見えるような状況を求める。
「結婚してください」というような、
法律のことばに置き換えられるプロポーズは、
自殺した弟とおなじになってしまうわけだから、
気軽には使いにくいのだ。
死んだ弟から奪い取るのでも、ゆずってもらうのでもなく、
自然に組み立てられる「つがい」でなければ、
納得がいきにくい。
そのあとで、あらためて結婚という「法律のことば」を
付加してもいいのだけれど。
竹中直人の仕立屋の、それがモラルの表現だ。
彼の考える世界は、そういう約束で組み立てられている。

しかし、さて、このあとは未知の世界だ。
「つがい」の相手である樋口の未亡人が、
仕立屋の提案を受けてしまったからである。
彼は、「つがい」になってしまってからのことばを、
見つけられなかった。

好意であるうちは、反応のないことを
当然と考えていられたのだが、
「結婚」に至ってしまった時には、
好意でなくて、通じ合う「愛」なのだから、
反応が必要になってくるのだ。
仕立屋の目には、なにもかもが、
不確かに見えてくる。
そりゃあそうだ。
ほんとに「つがい」であることを、
確かめる術なんて、あるはずもないのだから。
だってもともと、「愛」ということばは、
みんなの認めた都合のいいゴーストであって、
針や糸や布地のように、
いつでも確かめられる材料ではないのだから。

竹中直人の仕立屋は、
外国人の若い女と
気軽に「つがい」になれる兄のような
「実践的」な生き方はできないし、
法律のことばや、肉体のことばで安定をもとめるような
いい加減な解決もできない。
それをしたら、「かくも長き好意の歴史」つまりは、
じぶんの生きてきた長い時間と、世界のすべてが、
なんでもないものになってしまうからだ。

あらゆることばは、軌跡を残す。
ことばは、周囲のなにかを変え、消えていく。
身体のことばであるしぐさも、おなじだし、
表情も、行動も、ことばだから軌跡を残していく。

樋口の行動の軌跡をたどって生きているような
川津春の存在と、
登場人物たちをモデルにした小説を書くという理由で
あちこちにテープレコーダーを仕込む
尾美としのりの警官が、
「ことば」がつながりの中にしか存在しえないことを、
暗示している。

竹中の仕立屋も、ことばの軌跡、痕跡をひとつひとつ
たんねんに探っては、
樋口の新妻の「愛」を確かめようとして、
袋小路に入っていくことになる。
「愛するように、愛されたい」という目的は、
愛のかたちが不定形である以上、かなえられないものだ。
竹中の、「愛」という名の
「ことば=世界をつくる材料」への疑いは、
そのまま彼の世界像そのものを破壊するまでに膨む。

「愛」というわけのわからない材料を、
もとの、確かな「好意」に戻すには、
どうしたらよかったか?
それが、演劇評論家たちが「好意」で隠し続けている
終幕のどんでん返しという演出だろう。

『水の戯れ』の舞台には、
ことばの軌跡が痕跡が証拠が、あふれかえっていて、
主人公の竹中直人を追いつめていく。
竹中の仕立屋は、
どんなことばも、何かのつながりをもっていて、
意味をもつものだと考えるから、
意味のないものが目に見えなくなっていく。
その原因になったのは、「愛」という
不定形のことばを核にして、
(仕立てをするという安定した日常から抜けだし)
長くはない人生後半の世界像を組み立てようとしたことだ。

貨幣という物神に、対立する概念として、
「あいまいなことばとしての愛」を立てるしかできなかった
ぼくらの歴史は、
竹中直人演じる仕立屋を、ひとりつぶしてしまった。
彼は、愛ということばの犠牲者である。

むろん、その対で描かれている樋口の「弟の嫁」も、
同様の被害者ではある。
周囲の男たちが、その価値を妙にインフレさせたおかげで、
いつでも「好意」の対象以上になれないような不幸を、
彼女は背負わされてしまっている。
いわゆる「小劇場的」と呼ばれるような
他の登場人物と、
樋口可南子のいわゆる「女優」と呼ばれるような存在感は、
そのままこの舞台の構造と、
だまし絵的に重ね合わされた演出がなされている。

「愛ということばへの懐疑」が小劇場風であったとすれば、
「愛ということばの不可侵条約」が、
いままでの芸能の掟であったろう。
後者の世界を「じぶんの場所」にしてきたはずの女優が、
岩松了・竹中直人の舞台にあがるということは、
つまりは、住民票を捨てるような行為である。
樋口は、まるっきりの小劇場風の演技をしてしまったら、
『水の戯れ』という舞台の弟嫁の役はできない。
役柄としての彼女が、この舞台に、
いずれスピンアウトしていく「違和感」を出すには、
「愛が安定している世界」を、
隠し味として持っていなければならないからだ。
どうやら、稽古場での演出家岩松了の
「ことこまかな演技指導」という魔術は、
その境界の向こうから来たという匂いを残させたままで、
じぶんの舞台の登場人物として機能させるために、
徹底して具体的な演出で、彼女ら(外からの女優)に、
定着液をかけてしまうのだろう。
器用な「外からの役者」なら、
きっと馴染みすぎてしまうし、
不器用な人なら、舞台に違和感のみを漂わせるだけで、
岩松了の世界を破壊してしまうだろうから。

串田和美という、同業者でもある劇作家を、
最も「安定したことば」をあつかう人物として
キャスティングしたこともおもしろい。
ことばと、じぶんのフィールドでは格闘せざるを得ない
「演出家の串田和美」が、俳優としては、
プラグマチックともいえる「道具としてのことば」を、
なんでもなさそうに使う人間として登場するのだ。
この役割の人間がいなかったら、
この芝居は「仮縫い」さえもない、
日常を題材にした前衛劇になってしまったかもしれない。
串田の役割こそが、
もしかしたら、「ことばと人間」の共生の可能性を
指し示しているようにさえ見えてくる。
だって、彼は、親子のように年のちがう外国の女と、
まるで急に思いついたように結婚してしまえる男だし、
それで、じゅうぶんに快適そうなのだ。

岩松世界の人々が、すっかり忘れそうになっているのは、
「自律神経系のことば」だ。
人体が、意識されない内臓の働きで
いのちを維持しているように、
ことばという材料で構築されている世界も、
意味を追いかけきれないような、
大量の「こんにちは」や「あらまっ」やら、
「ああ、そうかい」などなどによってできている。
時として「愛」をそのことば群のなかに間借りさせても、
世界は壊れないし、
「ああ、そうかい」に「愛」の代用をさせても、
おおきな不都合はなさそうだ。
人間は、「愛」ということばなしでも生きていける。
「つがい」の男と女がいて、
次々に「ふたりの用事」が生まれていけば、
ほとんどことばを足さなくても、
「愛ともいえるもの」が現象化してくるだろう。
小津安二郎の登場人物たちの、「意味のうすい台詞」に、
現代の表現者たちが強くひかれながら、
パロディやオマージュとして簡単にまねるのでなく、
自前の論理でその場所にたどりつこうとしている姿は、
格闘技としてほんとにかっこいい。

と、いうようなことを言いたかったんだけど、
岩松さんにも、竹中さんにも、樋口さんにも、
「いや、よかったよ」という、
なんとも自律神経系のことばしか伝えられてなかったので、
遅くなりましたが、
もうちょっと、脳神経系のことばを足させてもらいました。
このへんが、ぼくも、格闘中の哀しさですね。
(darling)
(臨時第4回・完)

 

1998-12-24-THU

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