SAITO
もってけドロボー!
斉藤由多加の「頭のなか」。

ほぼ日連載5年企画の収穫と当選者発表
*プレゼントの当選者発表はいちばん最後です。

 

「忘れた頃にひょっこり更新される、
 その不定期さがいいですね」
 
ずっと以前の雑誌対談で、
初対面の音楽プロデューサーの方から開口一番出たのは、
本連載に関するこういったコメントでした。
「そんな風に見ている人もいるのか・・。」
その時はその程度にしか考えていなかった。
プレゼント企画の打ち合わせで、
連載5年目にして初めて会った
ほぼ日スタッフのTさんからは
「もっと頻度を高くすればファンは喜ぶのに・・」
そういわれましたが、このときも正直、
編集者特有のトークだと思って聞いてました。
しかし今回の、(予想を遥かに超える)
プレゼント応募コメントには、
示し合わせたように、この指摘が多かった。
どうやら僕の連載は、
更新が遅いことで有名のようですね・・。
反省しました。
私は五年間、読者の存在など考えもせずに、
思いつくまま気の向くままこの連載を書いてきたわけです。
今回ちょうどよい機会ですので、その反省をこめて、
最近考えていることを
かなり主観的に書いてみようかと思います。
以下、長文です。

 

更新が遅い理由(わけ)

僕は、自分を題材にしたエッセイなどは嫌いでして
とても偉大な人である場合は別として、
そうでもない人が、雑誌に自分の主義や趣味嗜好を
あれこれならべるのを見ると、
どうかと思ってしまうのです。
かくいう自分も、そういう人間であるから、
これまでも本を数冊書いてきましたが、
「自分」が主語のものはまだありません。
日記をホームページにしたり、
会社のサイトで自己紹介したり、
といったこともすべて避けてここまで来ました。
本連載も、自分の主観はあまり書かず、
なるだけ誰が読んでも面白がることを書くのが務め、
と考えてきました。
論文調にならないようにと、
たとえば写真を撮ったりしているわけですが、
そのぶん毎日更新できるわけではない。
いつしか読者の間では、
「更新が極端に少ない連載」
となってしまったのでしょうね。

 
ゲーム的な表現

シミュレーションゲームとノンフィクションとは
とても似ています。
材料だけ提示して、
「あとはご判断ください」です。
主義主張は画面や文面にではなく、
ユーザーの脳裏に投影する手法なわけです。
面倒くさいですが、その分、とても惹かれています。
僕は、ですから、何億もかけた映像が続く
物語調のゲームよりも、
テトリスやシムシティーのように、
シナリオがなく、その分何度もできるゲームを
すごいと思うわけです。
公園の砂場のように、
試行錯誤をとおしてものごとの摂理を教えてくれる、
そういうのをすばらしいと思うのです。


 そこにあるのは因果関係のみ、
 ゲームオーバーもなければストーリーもない、という
 表現手法にやけに惹かれるのです。



「でもシーマンはいろいろと
 飼い主のことを指摘してくれるけど、
 テトリスはなにも教えてくれないじゃない」
 
若いゲームのクリエーターから
そういわれたことがあります。

「そんなことない、テトリスはとても
 重要なことを教えてくれるよ」
 
と言い返したら、

「じゃ、斉藤さんはテトリスから何を教わったんだ?」

と詰め寄られました。

「いまの自分は、長い棒が降りてきて
 一発逆転する機会をひたすら待ちわびている状態だ、
 ということがわかった」

と苦し紛れにいったら「ほーーー」と感心した表情で
彼は帰ってゆきました。

 
耳のあるゲーム

将棋やトランプもそうですが、
いいゲームほどユーザーの性格が現れるものです。
誰がやってもみな同じ結果になるものは、
わざわざゲームとして作らなくても
いっそ映画のように線形の表現をとったほうがよい、
ということになります。
こういうゲームは人間にたとえて
「聞く耳を持たないゲーム」
とうちの社内では呼んでいます。
「耳」の有無とは、
つまりテレビとコンピュータの違い、です。
いいゲームとは、ユーザーによって変化するわけです。
だから古来よりゲームというのは、
紙やビデオテープのような
直線的なメディアでは実現が困難で、
駒やカードやソフトウェアのように、
動的に組み替え可能なメディアが必要となるわけです。

言い方を変えると、その時々の自分の状態を
映し出すことができるという点で、
優れたゲームは「鏡」に似ています。
かつてエリック・クラプトンが愛する子を失い、
失意の中で音楽活動を停止している間、

「いったいなにをやっていたのか?」

というインタビュアーの質問に

「ひたすらテトリスをやっていた」

と答えていたのを音楽雑誌で読んだことがあります。
すぐれたゲームが人を熱中させる
魔力をもっている理由は、
自分自身をいつしか
投影しているからではないかと思えるのです。

 
自分の鏡

光栄なことに、将棋の羽生名人と
ラジオで対談をしたことがあるのですが、その時氏曰く

「相手の優れた所を讃えあう対局もあれば、
 互いの弱いところをつつきあう、
 いやらしい対局もある」

んだそうです。
将棋に疎い私にはそんなことわかりませんが、
わかる人にはわかる、
それがゲームの持つ言語性ですし、芸術性です。
言語である以上、組み替え可能で、
可変で、直線的ではない、
そういうゲームをつくっていきたいと私も思う訳です。
初期の任天堂のゲームが面白かったのは、
そして最近のゲームが映像効果の進化とともに
ゲーム性を失ってしまったのは、
映像表現の構造が線形(ストーリー仕立て)に
なってしまったからだと思っています。

「もってけドロボー」という連載も
同様の趣旨ではじめてみました。
世の中の構造をなるだけ客観的にぽんと提示して、
「どう思います?」みたいな投げかけができればいいな、
と思ってやってきました。
すこし偉そうですが
「ゲーム的な文章」とでもいいましょうか。
ですからここ数年、毎日、デジカメを持ち歩いています。
いつなんどき、ネタが現れるかわからないので。
そんな経緯で、外出する機会の少ない時期
(制作物の締め切り時期など)になると、
てんでネタがなくなってしまいます。
それが更新の遅い理由なわけであります。


まったく長い言い訳になりました。
とりとめのない文章でしたが、
今年も更新の遅いこの連載、
ご愛読のほどよろしくお願い申し上げる次第です。

齋藤さんへの激励や感想などは、
メールの表題に「齋藤由多加さんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ろう。

2004-01-10-SAT

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