SAITO
もってけドロボー!
斉藤由多加の「頭のなか」。

第4回
「携帯電話って無線機なのに」

昨年末、団地の近くのローソンにいったら、
店内に行列ができているじゃありませんか。
何ごとかと思ったら、
携帯電話の番号を11桁に直す機械が設置されている、
ということでした。
町内会とは比較にならないほどの近所の人だかりに、
「この団地にはいったい
何台の携帯電話がはいっているんだ?」
そう思うほどその光景はまさに異様でした。

そういえば、
私の周囲で携帯電話を持っていない人は
ほとんどいません。
確かに携帯電話は便利です。
飲み屋にいても、車に乗っていても、
平日の昼間にオフィスにいるときでさえも、
便利すぎて困るくらいです。

最近になって不思議な現象が起き始めました。
「ふだんは携帯電話をOFFにしている」という人が
激増しているのです。
普及して改めて、これが
「ふつうの電話とは違う」ことに
ようやく気づき始めたのですね。

では、さて、
携帯電話っていったい何なのでしょう?
検証すると、「電話機というよりも無線機」
という答えに行き着きます。
が、あらたな問題として、
無線機がなぜここまで普及したのか、
ということを考えたくなります。
余談ですが、最近「DoCoMo」が株式公開し
今世紀最後の大型公開、と話題になりました。
大型公開、です。
きっとそれは皆が無線機を「電話」と
思い込んで使い始めたからではないか、と思うのです。
正確にいうと、「電話」というメタファーで、
我々がこのサービスを捉えたからだと思うわけです。
(メタファー=隠喩、ですね。無線機を電話に喩えた、と)

シミュレーションその1
もし携帯電話が「電話サービス」として
デビューしなかったら?

携帯電話が存在しない時代でのシミュレーションです。
都心部にイヤというほどタクシーを走らせている
タクシー会社数社が放送局かどこかと結託して
「無線のサービス」を大々的に開始したとしましょう。
マーケッターは、綿密な市場分析の結果、
まずは業務用や重役用の自動車へ、そして
じょじょに一般へ普及、というプランを練り上げました。
関係省庁の認可も下り、
銀行や投資家からの軍資金の調達も万全です。
数億円をかけた大プロモーションの広告のコピーは
「これからは無線の時代。
どこからでも話せる『無線くん』だね」。
日経新聞は、
「いよいよ通信に無線時代の到来」
と書きたてました。
・・・と仮定します。

しかし、現実は、というと、
誰にも見向かれないままこのサービスは
終わったにちがいありません。
消費者は、これはどうやって相手にかけるものなのか、
どうやってつながるのか、つまるところ何に使うのか、
よくわからなかったのです。
申し込んだのは一部のハムのマニアぐらいのもので、
日経新聞はこのさまを
「キャプテンサービス以来の大規模空振り」
と書きたてました。
実は、こういうのってどの業界でもありがちな話です。
DVDなんていうのも、その一つかもしれませんね。

●しかし実際は

ところが、実際はというと、
このサービスは電話会社によってスタートされました。
彼らによってこの無線機は大胆にも
「電話」と命名されました。
周波数を10ケタの番号にしました。
(いまは11ケタに変わりましたが)
これがあたかも電話番号のような錯覚をおこさせたのです。
いうまでもなく彼らの最大の武器は
「電話」というイメージでした。
無線のマイクに向かって話せといわれても、
どんなことを話せばいいのかさっぱりイメージできなかった消費者も、
「持ち歩ける電話」となると、
かなり使い勝手のいいイメージが沸きました。
理由はカンタン。
無線とは違って、電話というのは
生活の一部となっていたからですね。
やがて消費者は好意的にこのサービスを受け止めました。
最初は会社の重役の車、そしてゆっくりと一般に…。
すぐに使わない消費者も、興味深くこのサービスを観察し、
やがてこの無線受信機は市民権を得、ブレイクしました。
株式公開した「DoCoMo」は、
NTTから独立した無線サービスの会社です。
でも、もはや誰もそんなことはいいません。
すでに我々の意識の中でこのサービスは
「電話サービス」として不動のものになっているのです。

人間はあたらしいものと出会うと、
安心感を求めてそれを既存のものに置き換える
という習性があるようです。
そのせいか、これまでにない新しい概念は、
「既にある別の名前」で
我々の生活に入り込んできています。
周囲を見まわしただけでも、
そういう例はそこらじゅうにころがっています。
我が家の「下駄箱」には
下駄なんか一足も入っていませんし、
全自動のフロ場に「風呂」なんかありません。
私の筆入れには「筆」はおろか
「鉛筆」すらも入っていません。
「執筆」は、「デスクトップ」と呼ばれる
パソコン画面に向かって行なわれ、
この原稿は郵便屋さん不在のまま、
深夜の編集部に「メール」されることでしょう。
何も積み下ろしているわけではないのに、
メールを「ダウンロード(積み降ろし)」した編集者は、
これっぽっちの重さもないメールに
「軽い」とか「重い」とかとコメントしたり…。

優れた製品ほど、
「なぜいままでなかったのだろう」といわれます。
生活の場面に入ってくるためには、
最初に使う人の意識の中に
自然に入ってくる必要があります。
革新的なことと便利なことは違う
という先入観がありますが、
実はこの両者は背反するものではない、
ということになります。
自然な姿を装って入ってくること、
これが「なぜいままでなかったのだろう」と思わせる、
重要なキーであるように思います。

1999-02-16-TUE

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