ほぼ日刊イトイ新聞 フランコさんのイタリア通信。アーズリにいちばん近いイタリア人の生活と意見。
2008-10-21-TUE

リッピ監督の夢。


マルチェッロ・リッピ監督が
記録を打ち立てようとしています。
その記録は、
半世紀以上前の1934年から1938年までの4年間に、
アズーリを率いて2回のW杯と、
オリンピックにも勝利した伝説の監督、
ヴィットリオ・ポッツォに追いつくものとなりそうです。

2年前にイタリア代表はW杯で優勝し、
その直後にリッピは監督を退きましたが、
あれから2年過ぎた今、
彼は再び代表チーム監督を務めています。

lippi

W杯2連続優勝を目指して。

この10月15日水曜日、
リッピ監督率いるアズーリはモンテネグロに勝利し、
2010年W杯南アフリカ大会の予選で、
大きく歩を進めています。
モンテネグロは強敵ではなかったので、
その夜のお祝いは、イタリアの勝利を祝うというよりも
リッピ監督が打ち立てた
30試合無敵の記録(引き分けも含む)を
讃えるものでした。

しかし彼の夢は、30試合負け無しという
60年間破られていない記録よりは、
アズーリにとって最高の催しであるW杯で2連覇し
ヴィットリオ・ポッツォに並ぶことです。
2連覇は、イタリアのティフォーゾ
全員の夢でもあります。

そのヴィットリオ・ポッツォですが、
1920年代終わりごろに代表チームに呼ばれた時は、
偉大な監督とは呼ばれていませんでした。
彼は並みの監督であり、
ひとりの優れた新聞記者だったのです。

当時のイタリアを統治していたファシスト党の
独裁者ムッソリーニは、
イタリアで開かれる予定だった第2回W杯に、
イタリアが優勝することを望んでいました。
第1回のウルグアイ大会では
開催国のウルグアイが優勝しましたしね。
ムッソリーニはポッツォに、
世界最強の選手でイタリアを優勝に導けるのは
だれかと尋ねます。

ポッツォの指名した選手は、モンティといいました。
アルゼンチン代表のセンターハーフで、
ウルグアイ大会の決勝戦まで戦いましたが、
優勝はできませんでした。

monti

W杯は国の代表チームの戦いですから、
イタリア人ではないモンティはアズーリには入れません。
そこでムッソリーニは、
彼にイタリア人の親類がいないか探せと命令し、
なんとモンティにはイタリア人の祖父がいることを
つきとめます。

こうして最強のモンティ選手はユヴェントスに入団し、
イタリアの市民権を与えられ、
アズーリの一員として1934年のW杯に優勝しました。

pozzo

1934

1930年はアルゼンチン、1934年はイタリアと、
W杯の決勝戦に異なる国の代表で2回出場した選手は、
今日に至るまでの長い歴史のなかでも
ルイジート・モンティただ一人です。

pozzo

ポッツォに並ぶか? 望みはあるか?

ヴィットリオ・ポッツォの2度のW杯優勝と、
オリンピック1936年ベルリン大会優勝という記録は、
これまた史上唯一ですが、
マルチェッロ・リッピは、
そこに並びたいと願っています。
こんどの南アフリカ大会は、
2年前のドイツ大会より困難かもしれません。
でも、望みはあります。

現在のイタリア政府首相と言えば、
ACミラン会長でもあるベルルスコーニで、
彼も大きな権力を持っていますが
ムッソリーニほどではありません。
ベルルスコーニが、
カカかメッシ、またはクリスティアーノ・ロナウドの
「イタリア人のお祖父さん」を探し出せたら、
リッピがW杯に連覇してヴィットッリオ・ポッツォに
追い付く助けにはなるでしょうが、
じつはFIFAの規則というものが、
そこに立ちはだかります。
現在では、ひとつの国の代表として
出場経験のある選手は、
他の国の代表にはなれない決まりになっているのです。

リッピの夢はかなうでしょうか‥‥。
2年後を、お楽しみに。

lippi


訳者のひとこと

さて、わたくしたちは、
ニッポン代表も応援せねばなりません!!

でも、こういう時代がかった写真を見ると、
伝統の厚みに気後れしそうになりますが、
年上の人の年齢は絶対に追い抜けないとしても、
でも、がんばれば対等にお話できたりもするのです。
がんばっていただきましょう、ニッポン。

モスキーノ

翻訳/イラスト=酒井うらら



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