フランコさんのイタリア通信。
アズーリにいちばん近いイタリア人の生活と意見。

ロナウドがミラノにやって来た。


彼の乗る飛行機は
1月25日20時30分に到着。
いかにも冬のミラノらしい雪が降り始めてから、
間もないときでした。
彼──ロナウドがミラノを去って行ったのは
2002年8月31日の真夜中で(下の写真)、
インテルとレアル・マドリードの交渉が
最後の瞬間に成立したのを受けてのことでした。
その時と今回では、すべてがまるで逆です。



4年半の年月をおいて
ロナウドがミラノにもどって来たのは、
去った時と季節も逆ならば、
彼を迎えるチームも違います。
インテルを去った彼がもどったのは
インテルの永遠のライバルであるACミランです。
飛びさった時と真逆の位置に着地したかっこうですね。

先週は「公式発表」が間に合いませんでしたが、
シルヴィオ・ベルルスコーニが
ACミランを世界の舞台の最前列にもどすために、
ロナウドという大きな買物をしようとしていると、
先週、ぼくはここに書きましたね。
もちろんこの買物については話題沸騰だったことも。

かつてW杯でのブラジル優勝の立て役者だった
この桁外れな選手は、
彼の到着直後の映像を不滅なものにするために
待ち受ける10人ほどのカメラマンが居並ぶ中で、
まるでハリウッドスターのように
ACミランに迎え入れられました。

そして、こなれ切った映画俳優よろしく、
ここ一番という時に必ず彼がふりまく笑顔で、
彼は質問に答えました。

「ぼくは世界一に戻るためにACミランに来ました。
 このチームは、ぼくの再生にふさわしいと思えます。
 ぼくは金銭的なことではなく、
 誇りにかけて、
 このチームを選びました。
 ぼくがもし、もっと稼ぎたいと思ったなら、
 ぼくの友だちのフィーゴがこの6月から
 プレイすることになっている、
 アラビアに行ったでしょう」

シルヴィオ・ベルルスコーニは、
すぐさま彼を賞賛しました。
「彼は今もって、
 世界サッカーにおける決定的なチャンピオンだ」と、
この、元イタリア首相は言ったのでした。

到着したプライベート・エアポートから、
ロナウドはサン・シーロ競技場まで車で送られ、
そこでコッパ・イタリアのACミラン対ローマ戦を観ました。
その時ACミランのティフォーゾたちは、
「ロナウド、ぼくらに夢を見させてくれ」と
歓呼して彼を迎えました。

インテルのティフォーゾは
彼をどう迎えたか?


ミラノの街のもう半分、
つまりインテルのティフォーゾたちは、
彼を小馬鹿にしたような
不作法でさえあるやり方で彼に挨拶しました。

ロナウドが厚い友情で結ばれていると思える
インテル会長のマッシモ・モラッティは、
彼の以前のチャンピオンがACミランに来た事を
歓迎しませんでした。
「彼がいずれはミラノに戻ると分かってはいたが、
 残念なことに間違ったチームに来た。
 いずれにせよインテルは彼を全く求めていなかった。
 私たちには彼は必要では無い。
 ただ落ち着き先がACミランだというのは、
 私の気にさわる」と
モラッティは述べています。

しかし実際のところロナウドは、
純粋に経済的なことでACミランを選んだのです。

たしかにアラビアが
彼にもっと高額を提供できたのは事実ですが、
サッカー的にそう大事ではない国のカンピオナートで
プレイしても、スポンサーは喜ばないでしょう。
スポンサーを降りる会社も出るでしょう。

レアルにいたころは、
彼の広告の肖像権は彼とチームに
半分づつ分けられていました。
これからは全部がロナウドのものになるでしょう。

そういうわけで、ACミランに落ち着いた彼が
今後18ヵ月のうちに稼ぐであろう額は、
契約金とスポンサーからの報酬をざっと見積って
少なくも3千万ユーロには届くでしょう。

良い選択をしたものです‥‥。


訳者のひとこと
ふむ、フランコさん、クールですね。
もろ手をあげて「待ってました」とは、
おっしゃらないだろうと思っていましたが‥‥。

写真の横断幕に書かれているのは
RONALDO PAGLIACCI O
ロナウド パリアッチョ
意味は「ピエロのロナウド」です。
たしかに馬鹿にしています。

それより、ミラノに雪が降ったということは、
気候が平常に戻ったということですか、ね。
1月に20度台が続いては、
夏はどうなることかと心配でした。
ちょっと安心しました。
翻訳/イラスト=酒井うらら

2007-01-30-TUE

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