フランコさんのイタリア通信。
アズーリにいちばん近いイタリア人の生活と意見。

ロナウドの譲渡、そして
リバウドの活躍のこと。

サッカー・マーケット、
つまり選手たちの売ったり買ったりですが、
イタリアでは「夢製造所」のようなものです。
「夢」は食べることの足しにはなりませんが、
生きることの助けにはなります。

サッカー・ファンたちは夢を見たがっていますから、
毎年イタリアでは、選手たちの行き来に関するニュースが
新聞の売り上げを伸ばしたり、
テレビの視聴率を上げたりします。

情熱派たちは、おとぎ話を聞いて信じる子供のように
目を見開き、すべての出来事を見守ります。

「僕はひとつのニュースのために何でもする覚悟があるし、
 真実を書く心づもりもできている」

これは、サッカー・マーケットに関する
ベテラン記者になるまでの25年間、
僕がずっとモットーとしてきたことです。

本物のマーケット記者とは、
締め切り(ディレクターに「見出しをよこせ!」と
怒鳴られる、あれ)に駆り立てられるもので、
時間がある時に書くと、どうもマズかったりします。

マーケットの本物のベテランは、
言うことが何も無い時にも、書くからには
言うべきことを何かしらちゃんと持って、書きます。

マーケットというものは、
それを扱う人間を消耗させるのであります。

初めてロナウドを見たときのこと。

このマーケットの2002年版ニュースで最大のものは、
インテルからレアル・マドリードへの、
ロナウドの譲渡でした。

ロナウドは、日本において、
ブラジルと共にW杯を勝ち取り、
インテルのマッシモ・モラッティ会長は是が非でも
彼を手許に置いておくことを望みました。

ところがロナウドは、
以前からクーパー監督と喧嘩をしていました。
監督はくり返し、こう言い続けていたのです。
「私にとって選手は、みな同じだ」

W杯に勝った後のロナウドは、
もう自分はみんなと同じではない、
自分は違うんだと感じていました。

自分は違う、自分は世界一なのだと感じていたのです。
そして彼は、世界一有名なチーム、
レアル・マドリードに招かれました。

インテルには4500万ドルが支払われました。
これは1997年にインテルが支払った額の2倍です。

1993年の秋、僕は、ヴァカンスに行っていた
ブラジルで、初めてロナウドを見ました。
もとセアラのサッカー選手で僕の親友でもある、
ルイズ・カルロス・ナシメント
(僕は彼の息子の名付け親です) に連れられて、
ベロ・オリゾンテのクルゼイロと
バイアのヴィトーリアの対戦を見に行ったのです。

「まだ17才なのに本当にとんでもない奴がいるんだ。
 こうやって見ておけば、君がイタリアへ帰ってから
 記事にできるだろう。そしたら君はすごく目立つぞ・・」

その午後のことを、僕は絶対に忘れないでしょう。
ロナウドはゴールを5本、決めました。

インテルの大勢のファンたちは、
彼らに感動を与え、夢を見させてくれたロナウドに、
見捨てられたと感じています。

競技場に行った時、
ボールがロナウドに渡るようにと願ったよね。
だって見た事も無い魔法を目の当たりにできると、
信じていたものね。



リバウドとレオナルドを見つめる
ベルルスコーニ首相。

インテルのファンたちはロナウドのことを嘆きました。
もうひとりの世界チャンピオンであるリバウドが、
ミラノのもうひとつのチーム、宿敵ミランで
十二分にプレーし続けているからでもあります。

なんとしてもリバウドを欲しがったのは
ミランの会長でした。

リバウドの年俸は2000万ドルというべらぼうなもので、
これはイタリア・サッカー界どころか
世界でも記録的な額です。

その会長とは、イタリア共和国の首相でもある
シルヴィオ・ベルルスコーニです。

ベルルスコーニは、リバウドにより良い環境を与えるため、
そして彼があまり孤立しないようにと、
ブラジル人で、かつて日本でもプレーしていたことのある
レオナルドをも、買い入れました。

レオナルドがミランでプレーすることはないでしょう。
彼はリヴァウドと伴にいて、
リバウドを寂しがらせないために
報酬を受けているのです。

願わくば、ミラン会長であり同時にイタリア首相である
シルヴィオ・ベルルスコーニが、
リバウドに捧げたほどの気配りを、
イタリア人たちにも捧げんことを・・・



翻訳/イラスト=酒井うらら

フランコさんのくわしいプロフィールはこちら、

フランコさんのホームページはこちらです。(日本語もあるよ!)

2002-10-28-MON

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