質問:
「芸術と評論のちがい」について、
保坂さんの考えをうかがえますか?
みんなが評論家みたいに
わかったふりして語るのも危険だけど、
「……結局、それでなんなの?」
という考えかたしかなくなることは
さらに危険なことなんだとぼくは思います。
「それで?」「結局は?」
それをいう手前までが芸術なんです。
だから「結局」はどちらでもいいはず。
「あなたはAを選ぶの? Bを選ぶの?」
どちらでもいいといえるだけの条件が
提示できたらいいと思うんです。
小説は便宜的に
どちらかを選ぶかもしれないけど、
その結論の前で
「どちらを選ぶんだろう?」
と思えればもうそれでいいんです。
選択までの過程が
それまでに入っているわけだから、
結論なんか関係ないんですよね。
ただ、こういう考えかたが実はほとんど
いきわたっていないということを、
よく感じるんです。
おそらくだいたいほとんどの人が
学校の授業と試験でしか
ものを考えていないから、
「問題には解決法がある」
と思いこんでいるわけでしょう?
「2+3=5」の
「5」が隠されているのが
日本の算数で「□+□=5」というふうに
イギリスでは足す要素を入れるという
コマーシャルがあるけど、
芸術が扱うのはどちらかというと
そういう感じのものなんですよね。
もっといってしまえば、小説の場合には
「□+□=□」とみっつとも隠れていて、
なにをどう入れても好き勝手で、
土台がしっかりしていればいい
という印象があるんだけど。
アウグスティヌスの
『神の国』のなかのいちばんいいところも、
すぐに結論にいかないところなんですね。
よく考えてみると身のまわりには
そういうものだらけで、
結論にいくことができる問題というのは
考える手段や解決法が
あらかじめ与えられているときだけ、
なんですよね。
学校で教わる「考えること」は、
ほとんど手段というレールが
与えられている上で、そのレールに乗って
解決法を考えるということでしょう?
だから、猫が病気になったときには
学校で教わったように対策を考える……
治療方法が何種類かあれば悩むけど、
とにかく病気になったという段階では
治療するという手段があるから
まだラクなんです。
ところがそこで猫が死んじゃうと
そういう手段がひとつもなくなるじゃない?
死んでしまった猫はもういない。
自分はここにいる。
それをどうつなぐことができるのか。
だいたいそもそも
つながるのかつながらないのか。
そこで、「つながらない」といえば
簡単に終わるだろうし
「イタコを呼べばいい」
「念じていれば夢に出てくるよ」
とか簡単につながるようなことを
いってしまう人もいるんだけれども、
そういう簡単な解決法に逃げないで
「どうやればこの問題を
 つなげることができるんだろう」
と考えてゆく……。
アウグスティヌスにとっての
「神」を考えてゆくプロセスは、
ぼくにとってはそうやって
小説を考えて書いていくことなんだ、
と思っているんです。
  明日に続きます。
 
感想を送る 友達に知らせる ウインドウを閉じる 2005-06-27
Photo : Yasuo Yamaguchi All rights reserved by Hobo Nikkan Itoi Shinbun 2005