質問:
保坂さんがさきほどおっしゃった
「状況をつくる」というのは、
具体的にはどういうものですか?
友達の撮った映画で
田中裕子と岸部一徳が出る
『いつか読書する日』というのがあるんだけど、
この描写がすばらしかったんです。
(六月末か七月はじめに
 渋谷ユーロスペースで公開予定です)
「すりばちの底のような閉じた地方都市で、
 高校のころにちょっとつきあっていた
 男と女が、結局外に出ずに、
 そのまま五十代になっている。
 狭い町にいるけど、
 おたがい顔をあわせないように生きている」
そういう情景を作っているところが
すごくよかったの。
岸部一徳のほうには
不治の病で寝たきりになった奥さんがいて、
田中裕子のほうは結婚しそびれて
両親が死んだ広い家のなかに
ひとりで住んでいて、
ふたりには行き場がないという状況が
ほんとにきちんとできていました。
映画全体からすれば
三分の一程度ぐらいのところだけど、
ぼくはもうそこまでで
作品にしちゃっていいんじゃないかというか、
むしろその先の男女がくっついたり
いろいろあるところは
もうどうでもいいじゃんと……
そうなってくると、状況を展開させると
カタルシスになってしまうというように
感じたんです。
いたずらに
「他の人にも応用性がある」
とかいう表現には、意味がないと思うんです。
そこにしかない状況でもきちんと表現すれば、
受けとった人が自分のなかの
別の状況で共振するというか。
あの作品でいうなら、どんづまりの
逃げ場のない状況だけが見えていればいいわけで、
さらにいえばそういう状況を見えたうえで
どういう展望の持ちかたをすればいいのかを
考えたいというのが、
ぼくにとっての小説なんです。
それにしてもあの映画で描かれた状況は
トラウマを抱えているような話とはちがって
「こういう出口のなさは誰にもあるんだろうな」
と身につまされるし、
人間には逃れがたい状況があると
ちゃんと感じられるすごくいいものなんです。
インターネットで一九九九年から毎日
「偽日記」というのを書いている人がいるんです。
絵を描いている人だから
自分の絵の進捗状況と絵を描きながら
考えていることと読んだ本と
見た映画の感想をそこには書くんだけど、
内容がすごく綿密でちゃんとしているんです。
最近のブログでありがちな
へんな評論みたいなものでは全然なくて。
その人はそれをずっとひとりで
たんたんとつづけているわけですね。
インターネット上には
とどく仲間を想定して書いている人なら
他にもたくさんいるけど、
とどくことをヘンに想定すると、
その人の書いているものは
結局仲間うちに向けたものになっちゃうんです。
「偽日記」のおもしろさは
ほんとに誰に向かっても書いていない、
というところなんですね。
噂によると、カウンターをつけたら
邪念が入ると思ったから
カウンターもつけていないらしいし、
読まれているかわからないまま
もう六年ですか?つづけていて、
ぼくも一昨年ぐらいに知ったんだけど、
けっこうちょくちょくのぞいているんです。
読まれることも想定しないで
ひとりでたんたんとやることが
いちばん人にとどいていたといいますか、
なにかをつくるときには
読者の顔が浮かびがちになるけど
「いちばん人を想定しない」
という流れに沿ってやることが、
きっと、いちばん
人にとどくんじゃないかと思います。
明日に続きます。
感想を送る 友達に知らせる ウインドウを閉じる 2005-06-18
Photo : Yasuo Yamaguchi All rights reserved by Hobo Nikkan Itoi Shinbun 2005