Lesson906
人に勝とうとしない、人と比べない。
たとえば、
10人なら10人で、文章を披露するというときに、
「恐い」と思う人は多いのではないだろうか。
なぜ恐いのか?
「この中で1番にならなくてはいけない」
「少なくとも人より劣ってはいけない」
という無意識が働くからではないだろうか。
私たちは、暗記型の学習を主にして育ってきて、
100点満点がある土俵で、
順位とか、偏差値とか、優劣とか、競争とか、
「人より少しでも上に」を習慣づけられてきた。
暗記型の勉強はとってもとっても大事だ。
でも、文章表現はアウトプット。
インプットの目で見てはダメ、
頭を大きく切り換えなければ。
「10人のうちの自分が10番になってもかまわない。」
でも自分は、自分の1番伝えたいものが書けた!」
まずはそういう自分の納得感から、
アウトプットを始めてもいいと私は思う。
「最も伝えたいものを導き出す」
書く上でこれが出発点。
人と比べて、勝とう、負けまい、という意識があるうちは、
どうしても、自分の中の「伝えたいもの」に集中できない。
そればかりか、
人より勝とうという意識は、
自分を人より優れて見せよう、自分以上に大きく見せよう、
という「力み(りきみ)」を生む。
すると本来の自分の伝えたい主題からズレ、
見てくれは立派だけれど、書いている本人が虚しい
文章になってしまう。
そもそも、
「優劣や、良い悪いで、人を見ない。」
どっちが優れているとか、序列とか、
あの人が良くで、自分が悪いとか、
そういう固定されたモノサシをとっぱらって、
もっと大きな、自由な視野から、
自分も、人も、見ることが大事だ。
文章を書く時に、
劣等感がこみあげる人もいるのはわかる。
書くことは考えることだから、
自分に問う=考えるためには、
「自分を見つめる」プロセスが不可避だから、
その過程で、自分の欠点が見つかったり、
想っていたよりもショボい自分の正体に
へこむ人もいると思う。
すると、自分探しにはまったり、
欠点を直そうと自己改造に走ったりして、
文章表現は迷走する。
「自分探しに陥らない、自分を直さない。」
文章表現は、自分探しでもなければ、
道徳でもない、自分を直すのでもない。
伝えたいものを出す・伝える・通じさせる。
考える過程で、自分の悪いところが見つかっても、
悪い所はむしろ、表現すべきお宝になることも多い。
自分の好きな表現作品を思い浮かべてもらえば、
小説にしても、映画にしても、歌にしても、
登場人物が愛しいのは、
決して、その登場人物が人との比較で上位だとか、
完璧で悪いところがないからとか、
そういう事ではないはずだ。
それどころか、人よりはるかに
遅れをとっている登場人物が、
小さな猜疑心に痛み、あえぐ登場人物が、
イキイキと魅力的に書かれ、読む人を解放する。
人が気になる、人に勝ちたい、
という人は、それもいい。
文章表現のプロを目指す人には大事かもしれない。
それでも、人と比較して、
優れているの、劣っているの、喜ぶの、悲しむの、は、
自分がいちばん伝えたいものを伝えきって、
まず、書き手自身が心底解放されて、
その先でいい、と私は思う。
「人に勝とうとしない、人と比べない。」
そういう窮屈なモノサシが支配するところに、
自分自身の個性を押し込めては、
表現は息ができない。
文章表現は自由なものだ。
何を書いても、本当に自由。
まるでカツオの一本釣りのように、
自分の中から一番伝えたいものを引っぱり出そう。
書く歓びもそこから来る!
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