YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson899
 歩いて、やすんで、また歩きだして



生きてると本当につらいことがある。

そんなときは、まっすぐつらがって、
ひどいときには立ちどまって、やすんで、
また歩きだせばいいのだな。

そこで、やさぐれたり恨んだり後退したりは違うな、
よけい傷をしょいこむし、方向軸も歪むし。

休みながらでも好きな方向に進んでる、

それ自体希望があるし、
のりこえつつあるということだ。

「つらいときの乗り越え方って人によって違う。」

“悲しみ”の範囲をオーバーし、
メーターでいう計測不能の赤いゾーンに振り切れ、
抱えきれなくなった感情をここで“怒り”と呼ぶ。

それを、

やさぐれる

というカタチで表す人がいる。
ふてくされたり、投げやりなことを言ったり、
ひごろ悪いと感じてる行為をわざとやったり。

怒りの矛先を、具体的な人とか会社とかに向けて、
正義感と絡めて、攻撃的に吐き出してしまう人もいる。

後退、する人もいる。

せっかくダイエットしてきれいになったのに、
あるいは、受験に向けコツコツ勉強習慣を築いてきたのに、
怒りにまかせ、進んできた道を後退。
新しく手に入れた自分も、築き上げた良き習慣も、
あっという間に逆戻り、無に帰してしまう。

怒りをSNSに吐き出す人もいる。

やさぐれて吐いた暴言が、

だれかの怒りのツボにカチン!と触れ、
からまれて傷つけられることもある。

ネットで鴨を探す犯罪者には、
自暴自棄の人間を見つけるフラグに見えたりもする。

本当はただやるせない気持ちを発散したかっただけ
なのに、世のため人のためと正義感にからめ、
具体的な矛先を見つけて怒りを吐き出したら、
思わぬ反対勢力が表れて、
泥沼の言い合いになったりする。

これらは、

「進む道をそれる」

カタチで怒りを表している。進む道をそれても、
そこでのぶつかりあいは消耗戦、傷口を広げるだけで、

「いったい自分は何のために何と戦っているんだろう?」

と虚しい。

みんながみんな目標に向かって
はっきり自分の道を進んでいるわけではない。

それでも、人にはそれぞれ進んでる道があると私は思う。

無自覚でも、なんとなくでも、
自分の想いが向く方へ、美意識の向く方へと、
探り探り、コツコツ、これまでけっこう遠く進んできた。
こういう方向にだけは進むまいと固く自制もしてきた。

その道を、怒りにまかせて、それてしまうと、
その先での傷や消耗もあり、道を見失い、方向軸も歪む。

すると、もとの地点に戻るだけで大変だ。

生きてると本当につらいことがある。

そんなときは、まっすぐ「つらい」を表そう。

人のいないところで
「つらい」「悲しい」と叫んでもいいし、
地団太を踏んでもいい、泣いてもいい。

文章に書いてもいい。

つらい想いの手触りも、その理由も、
報われなかったそれまでの自分の努力も、希望も、
書くことでひとつひとつ、光を当て、尊重し、外に出せる。
やり場のなかった怒りも、出口を見つけ、昇華されていく。

つらくて進めないときは、立ち止まって、やすむ。

脇道にそれないし、後退もしない、曲げない。
やすむ。

そうして、怒りが静まったり、傷が幾分癒えたり、
気力、体力、回復したら、

また、歩き出す。

のりこえるとはどういうことだろう、
と思って来たが、

「進む道をまた歩き出す、歩いている」

ということではないだろうか。

やすみながらも自分の道を進んでいる、
そのこと自体に希望がある、と私は思う。

ツイートするFacebookでシェアする


山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2018-11-14-WED

YAMADA
戻る