YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson894
 「天才」と言うまえに


「雑」って、悪意より
罪の意識がない分タチが悪い、と最近思い始めた。

人に「バイキン」と言うのと、「天才」と言うのは、
真反対のようで「雑」という点では同じ。

かけがえのないその人の個性を丁寧に理解せず、
雑にさげすむ、雑にかつぎ上げる。

「天才を辞める」

とTVのナレーションが耳に飛び込んできた。
NEWS ZEROという報道番組、先月のことだ。

17歳でデビューしたアーティストが、わずか3年で、
活動を終了するという。

私は彼の音楽や歌詞が好きだったので、衝撃を受けた。

高校生の時から天才と言われてきた彼は、
自分の実像とズレた偶像ができあがっていることに、
その偶像に逆に自分が支配されていくことに、
耐えられなかったという。

十代でデビューした人を、
そこまで追い詰めた大人の責任が、
自戒をこめてあるように思う。

かつぎ上げるほうは、天才天才と安易に言うが、
かつぎ上げられた者は、
その高みから自分で降り降りなければならない。

ちょうどそのころTVのワイドショーで誰もがその名を知る、
現在高校生のプロ棋士の特集をやっていた。

見ていてこちらがちょっと不安になるくらい、十代の彼を
「天才棋士」とまつりあげていた。

小さい頃からの彼のエピソードを1つとりあげては、解説。
そのたび、たくさんの大人たちが、どよめき、
よってたかってほめたたえる。

ほめることは良いことと誰も信じて疑わない。

しかし、天才というレッテルを貼られるだけ貼られ、
わっしょいわっしょいと、かつぎ上げられるだけ、
かつぎ上げられ、
最高にハードルがあがったところで、

「さあ天才です」

とかつぎ出されるのが、もし自分だったら、
しかも10代だったら、
と想像すると、空恐ろしい。

がっかりされたくない、
というプレッシャーももちろんだけど、
もっと得体のしれない恐ろしさだ。

天才という言葉には実体がない。

思春期の多くがそうであるように、
私も10代のときは自意識過剰だった。

自分がまだ確立されてないから、グラグラと、
まわりからどう見られているかを過剰に気にする。

そんなときに「天才、天才」と言われたら、

自己像がブレまどう。

高校の時、天才と思っていた人が、
大学に行ったら、そういう人が複数いたり、
社会に出たら、もっともっとすごい人がいることもある。
その視野を経験する前に天才と言われる人も辛い。

また、大人が若い人に天才というとき、
「年のわりには」という、
もともと若い人を低くみる先入観の
裏返しだったりする人も、場合によってはいる。
そういう先入観は見え透けて、言われた方も辛い。

「十代の才能を、私たち大人がどんな言葉で語るか?」

人を見るときは、個別に丁寧に。
かけがえのない個性を見よう。

たとえば、文章に才能を認めた時は、

「あなたは天才」とか、「文才がある」とか、
雑にほめるまえに、たちどまって、
よくその人の文章を読んで、

「この文章の、この部分に、私はこんな想いがこみ上げた」

というように、具体的に、部分的に、
どこが、どんなふうで、
私の心はどう動かされたか、正直に伝えてみる。

あるいは、

「この10年間にたくさんの学生がこの題材を取り上げたが、
あなたの、このような考え方をした人は1人もいなかった。
ここにかけがえのないあなたの個性を感じる」

というように、他人とどこがどのように違うか、
どの資質がかけがえないか、事実を具体的に示す。

こんな実体ある言葉で伝えていけば、解釈がブレず、
相手がいたずらにかつぎ上げられたり
踊らされることもない。

天才は苦もなくやってると見られがちだ。

でも、努力して、骨身削って夜も寝ないで、
失敗ものりこえて、コツコツ続けて、やっとできたことを、
「アンタ天才だから」
のひと言で片づけられたら切なくないだろうか。
努力や過程にも目を向けていきたい。

天才と言うまえに、

「かけがえのないその人の個性を理解しているか?」

そこを個別に、具体的に、言葉にしたい
と私は思う。

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2018-10-10-WED

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