YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson838
    理解の体力を鍛える



自己を表現したいなら、

前提となる自己理解をやれば
自然に表現したくなっていく。

自己理解の精度には、

つまり自分という人間を読み解き、
理解していく深さや正しさに、

国語の勉強が無関係なはずはない。

考えていく過程は「言葉」だ。

ひとりよがりでなく
正しく深く読む力を鍛えた人は、
自己理解も正しく深い。

「この人は文章が読めてない。」

とガクゼンとすることがある。

少し難しい本を読んだあとのようなときに、

インターネットにあがっている本の感想や評価、
レビューを10件、20件…と通して読んでいくと、
あきらかに個人の感じ方の差などではない、

そもそも一冊の主旨が読めていない人にでくわす。

私も人のことは言えない読書量も力も非力だけれど、
そんな私にもはっきりわかるほど、
はげしい誤読の人がいる。

それだけならまだ、いい。

本人は要旨からハズレている自覚がなく、
ただ、自分の好きに、読みたいように読み、
言いたいことを言い、あげく、
本の筆者の文章にケチまでつけている。

この人は、この読解力で、
このインターネット時代を生きて、
自分のまわりの大切な人たちを理解し、
自分を理解し、
自分をとりまく世界の読み書きをしていくのだろうか。

「その皮相な読解力で、どうするの?」

としばしガクセンとした。
その言葉はそのまま自分にはねかえってきた。

「読むチカラを鍛えなければ!」

読解の指導は、
高校の現代文の先生がプロなので、
高校生なら現代文を満点とるつもりで頑張ればいいし、
速読のプロなどにおまかせするとして、

それでも小論文の経験から1つだけ伝えたい。

それは、「読む体力」についてだ。

小論文入試の多くは「読解」とセットだ。
高校では習わないような、長く難しい文章の読解・要約が
求められることもザラだ。

そういうとき、「頭の良さ」という言葉には、
どうにも収めきれない、生徒の

「読む体力の差」を感じるのだ。

「持久力」にも近い知的体力。

その生徒が、どれくらい歯ごたえのあるものを、
どんなふうに読んできたか、その結果、
文章から他人の言わんとすることを的確につかむ筋肉を
どれぐらい鍛えてきているか。

読む力が伸びたとは、
単純なものから複雑なものが読めるようになった、とか
具体的から抽象度の高いものが読めるようになった、とか、
論理的思考力がついた、語彙が増えた、など
モノサシはいくつもあり、どれもそうなのだけれど、
小論文仲間と注目して感じ入っていたのが、

「より論理の息が長いものが読めるようになる」ことだ。

読解力がないうちは、短い文章しか読めない。
じょじょに鍛えていくと、
どんどん長いものが読めるようになる。

20〜30ページ読むのも苦しかった人が、
100ページ200ページ…500ページと読めるようになる。

ただこのとき、「長い文章」と一口に言っても注意が要る。

「単に話題が変わっていった結果の長い文章か?
一つの脈絡をもった長い文章か?」

小論文という仕事柄、
大学の先生をはじめ、
研究者の文章を数多く読まねばならず、
歯が立たなくて苦労した。

なにが歯が立たないかって、
1つのことを言うための論点・論拠・結論までの
脈絡がある、

その脈絡が長い。

「難しいよお、歯が立たないよ、助けて」
と思いつつも、とにかく1回目は、
ブルドーザーのように一気に通して読んでいく。
わからない言葉があってもそこにとらわれない、

すると、後半のほうになって、

「ここは、ずっとずっと遙か前のページで
筆者が提起した問題の答えじゃないか?」

「あのずっと前のページで筆者が言っていた話は、
ここまでつながっているのか!」

と発見がある。

読みおえて、読み直し、論理構成を図にすると、

1つの段落が1つの役割を果たしている。
段落と段落がすべて意味を持ってつながっている。

単に話題が変わっただけで意味なく並んでいる
段落など1つもない。

すべての段落が脈絡をもってつながっており、
そのまとまりがとても長い。

そんな文章を書いた人の頭の良さはもちろんだけど、
それ以上に「要するに、要するに…」という
論理的思考の粘り、
それを持続していく「知的な体力」に、打たれる。

当然そういう文章は、読む側にも「知的体力」を求める。

ヘロヘロになって、格闘したあとのようになって、
やっと自分のではない、「他人の言わんとすること」が
現実感をもって身に迫ってくる。

理解力に優れた人は、
こうした訓練を数多く積んで筋肉がついている。

さいきん、300ページ超えという
私にとって長い文章を読んだ。

同じ300ページを読むにしても、
たとえば短編集なら、短い話が集まっているので、
短距離走をいくつも積み重ねればできる。

しかしこれは1つの脈絡をもった歯ごたえある300ページ。

途中、「難しいよ、歯が立たないよ、量もハンパないよ」と
弱音を吐いた。
理解の体力が、運動不足で落ちていることも痛感した。

でもそんなとき、私がひごろ高校生に言っていた言葉が
よみがえってきた。

「小さい自分の枠から1歩も出ず、スラスラ読めて、
読む前と後で自分が1ミリも変わらない読書でいいの?」

そして、

「くらいついて取りに行け!本の世界にさらわれろ!」

自分はいくじなしの読み方をしていたと気づいた。
どこか守りにはいっていた。
本と自分との間に1枚ガードをはさんでいた。

なにを恐れていたんだろう?

本の世界に身投げしよう。
筆者の考えにのっとられて、さらわれて、
帰ってこられない、
それでもいい。

それこそ食らいついて読んだ。

読み終わったときに、
自分の論理の息より遙かに長い脈絡を持った世界に触れた。
そのスケールの大きさに震えた。

ほんの1ミリでも、文章を読むことで
自分の枠組みから踏み出すのは、心底、たのしかった!

好きな本を好きなように読むのもいい、
読書は自分の流儀でいいと私は思う。

でもこの夏、理解の体力がなまっているので鍛えたい。

「歯が立たないけど、
一つの脈絡をもった長い文章に挑んでいこう!」

と私は思う。


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2017-08-02-WED

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