YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson769
      失ったものに凹み過ぎる時は



「喪失感は、依存度に比例する。」

それに依存していればいるほど、
失った空虚さは大きい。

人はどうかはわからないけど、私はそうだ。

「それが無きゃ生きていけない」

というとき、
当然自分の足で立つべきところで立ってない
可能性がある。

5、6年前、

尋常じゃない「喪失感」に、
自分でもあきれ、とまどっていた。

担当の美容師さんが辞めるという。

慣れ親しんだ美容師さんと別れるのは、
多くの人が、大なり小なり寂しいだろう。
だけど、そんな程度じゃない。

はなはだしいまでの凹みようは、
なんか危険な感じがした。

その頃、

コンビニで大好きだった商品が1つ、
廃盤になっただけで、
やっぱり、はなはだしいほど凹む自分がいた。

「あの尋常じゃない喪失感は何なのか?」

あんな想いは二度とごめんだったので、
その後ずっと担当してくださった美容師さんが、

「実は‥‥、」

と切り出したときは、肝が冷えた。
だが、今年からフリーランスになられるという。

これからも担当していただける!

と胸をなでおろし、
このタイミングで、なぜか、
まえまえからやってみたかった、
「自分で髪を染める」
ということを、いちど、
おもしろそうだから、やってみようと思い立った。

道具を買いそろえる。

いま、セルフヘアカラー用グッズとか、
セルフカット用品とか、
とても充実していると、初めて知る。

ユーチューブでやり方動画をさがしていると、

高校生の男子が、
まったく美容院にはいかず、
たいへん上手に自分の髪をカットする
動画にでくわした。

「美容院とのかかわりも千差万別なんだな。」

前髪くらいは伸びたら自分で切れる人、

カットはすべて自分でやる人、

髪染めだけは自分でやる人、

子どもの髪は上手に切るが、自分は美容院に行く人。

カットからヘアカラー、晴れの日のスタイリングまで、
全部自分でやれる人、

「これを機に、自分と美容師さんの関係を
 見直してみよう。」

カットや、パーマ、スタイリング、おしゃれ染めなど、
プロの技が生きるところは、
今以上に、しっかり美容師さんに頼り、
いま以上に、おしゃれにしてもらおう。

一方で、加齢による髪染めぐらいは、
自分でできるようには、しておこう。
美容師さんに出す出さないは別として、
それ以前の、女のたしなみとして。

美容師さんも、それを嫌がる人では決してないが、
おばちゃんの白髪染めをするために
独立したわけではないだろう。

「プロの技が生きるところで、しっかり頼り、
 私も、より、おしゃれになっていこう!」

いざ、自分で染めてみるととてもたのしく、
自分は、意外に手先は器用なんだな、と思い出す。
そういえば、会社に勤めていた頃、
後輩からよく、編み込みなどの
髪形のやり方を聞かれたなと、
なんか、いきいきしてくる。

そういえば、このところ、
コンビニでお気に入りの商品が廃盤になったとて、
必要以上に、落ち込むことがない。

なぜかな?

と考えたら、最近は、
心から美味しい、楽しいと、
料理をするようになったからだ。

「自分でつくる」

というベースの食生活が充実していると、
買う食品が1つ、廃盤になったからといって、
必要以上には落ち込まない。

以前の、あのはなはだしい凹みは、
なんだったのか、と考えていたら、
ふと、

「喪失感は、依存度に比例する。」

という言葉が浮かんできた。

そうか‥‥。必要以上に、頼り過ぎていた。

歳を重ねて、
だんだん白髪が目立ちはじめたころ、
美容院で染めてもらうことには、
たいへん抵抗があった。

ガラス張りの美容院の
窓側の席にされたときには、
道を歩く人々に、
染めている姿をみられるのが恥ずかしくて
しかたがなかった。

家族ならまだしも、
他人に染めてもらうこと、
しかも、男性の美容師さんに
染めてもらうことも苦痛だった。

でも、度重なるうちに、平気になり、
何も感じなくなり、いつしか、

髪は美容院で染めてもらうもんだ、
になっていた。

さすがに、円形脱毛症になったときは、
たった1つ、ほんの小さなハゲでも、
ものすごく恥ずかしかったが、
4ヶ月で何事もなく治った。

そうやって、自分の恥ずかしい部分をさらし、

恥ずかしい部分を晒しても助けてくれる存在に、
精神的にも頼り、
ますます依頼心は強くなり、

自分では何にもしようとせず、
自分でできる部分があることすら忘れ、
やがて美容師さんがいないと何にもできない、
できないのがあたりまえの自分になっていた。

「それが無きゃ生きていけない」

というとき、
当然自分の足で立つべきところで立ってない
可能性がある。

そういう危うい状態で迎える別れは、
根こそぎもっていかれるような空虚感がある。

「自立しなきゃ、だな。」

愛は、依存でなく自分の足で立って、人を想うこと。

自分の足で立つべきところは、
ちゃんと立って、

それでも、人との別れは哀しいし、
お気に入りの商品が消えるのは寂しい。

でも、自分の立つべきところは立った、
その先に向かえる別れは、

やっぱり悲しいけれど、
やっぱり切ないけれど、
心の底から温かい「ありがとう」が突き上げてくるような
どこか素晴らしい別れなのだ。

失ったものに凹み過ぎる時、

本来、自分の足で立てる・立つべき部分を
取り戻すチャンスなんだ、と私は思う。


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2016-02-24-WED
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