YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson716
 暴力的な弱さが支配する



たとえば「パワハラ」という言葉があるように、
強いものが弱いものを
しいたげることは、問題視される。

権力ある者が、ない者を踏みにじり、
腕力の強い者が、弱き者をねじ伏せ、
金力のある者が、金のパワーで支配する。

でも、強く積極的なチカラのみが問題だろうか?

暴力的な弱さってあるような気がする。

本人が弱さを武器にしているのか
無意識なのか、わからないけれど、

その弱さに周囲が振り回され、
消耗し、従っていくしかないような
チカラの構造。

「暴力的な弱さが支配する」

ある朝、この言葉が浮かび
切実な想いにかられた。

なぜこの言葉が浮かんだのか、
つらつら思い出し、たどっていくと、
昨年の、あるやりとりに行きあたった。

そのとき私は、こらえた。

自分が折れたおかげで事は無難におさまり、

「自分もまるくなった、
 おとなになった」と、
褒めてもいいような一件だった。

だが、とうてい褒める気にはなれず、
胸のざわつきは強まり、
自分イケてない感が募った。

「屈した」

という後味だった。
あれは、ごまかしようなく。

腕力や権力、金力など、
チカラに屈したときと同じ、
後味のまずさだった。

屈したとしたら、何に屈したのだろう?

考えたら、
相手の

「弱さ」だった。

だが、強い者が弱い者に譲ったり折れたりは、
美徳ではないのか?

たとえば幼い弟に、お兄ちゃんが、
わざと負けてやるのは、
決して屈辱なんかではない。
優しさだ。

そう思おうとしても、何かが決定的に違う。

幼い弟が、どうしてもチカラの及ばない
お兄ちゃんに必死でついてく「健気さ」とか、
赤ちゃんの無条件に守ってあげたい「弱さ」とは、
何かが決定的に違っていて、それは、

「マイナスの威圧感」

とでも言うような、
有無も言わさぬ圧力で場を支配していた。
暴力と同じ方向にある弱さだ。

暴力っていうのは、
腕力をふるうことだけではない。

人がわかりあうのをやめ、
言葉にするのをやめ、
考えるのをやめ、

そうした果てに及ぶ短絡的行動、
それは暴力的なチカラで周囲を威圧する。

「暴力的な弱さ」

そういう力に屈したくない。

切実に思った。
具体的にどうしていいのかはまだわからない。

もしかしたら、
マイナスの威圧感を行使するとき、人は、
自分でも自分の弱さをどうすることもできず、
ふりまわされ、従うしかないのかもしれない。
そういうチカラ構造が
自分の中で起きているのかもしれない。

自分も弱い存在だ。
いつマイナスの威圧感を行使しないとも
限らないからこそ、
追いつめられても、
それでも
考えるのをやめず、
言葉を放棄せずにいたい。

理性をとり戻すということは、
「言葉をとり戻す」ことだ。

チカラに屈して
自分の大切なものを
あけわたしてはいけないと同じように、
暴力的な弱さにも、屈してはいけない。

まずは「そんな弱さ、恐くない!」と
自分に言い聞かすことからはじめてみようと思う。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2015-01-07-WED
YAMADA
戻る