YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson671  演技と表現

演技と表現、

パッと見、同じでも、
実は全然アプローチが違う。

例えば、「良い子」。

まるで仮面をかぶるように、
良い子を演じる、「演技」と、

自分の中の人間的な良い部分を引き出し、
外に表そうとする、「表現」とは、

似て非なるものだ。

先日、

テレビをつけると、
「金スマ」という番組で、

モノマネで大人気をはくした青年を、
モノマネでない本物の歌手に転身させる
というドキュメンタリーをやっていた。

ベテラン女性歌手が、
彼の転身を指導するのだが、

両者の話は、かみ合わず、

結局、

ドキュメンタリーはお蔵入りに、
歌手へ転身する計画も頓挫してしまった。
私は、この対立こそ、

「演技と表現のちがい」

だと思った。

モノマネ青年は、青木隆治。

幼いころから並外れた「聴覚」を持ち、
それは聴覚検査で医者が、
「ほんとにここまで聞こえるのか!」
驚くほどだった。

また彼は声に「1/fのゆらぎ」を持っている。

天性の「耳」と「声」、
それに加えて、「環境」も。

父親がツートン青木というモノマネ芸人で、
幼いころから、父のモノマネを
聞いて育ったという。

さらに研究と努力を重ね、
青木隆治は、
ホンモノそっくりに歌をマネる。

モノマネ芸人には、
デフォルメしたり、独特の解釈を加えて、
ときに本物からかけはなれた大げさな表現で、
笑いを取るタイプの人もいるが、
青木隆治は一切それをしない。

彼は、まるでコピーのように、
クローンのように、本物を真似る。

そんな経緯を持つ青木隆治に、
だれのマネもせず自分として歌え、
と指導するのだが、

いざ歌ってみると、たしかにうまい。
音程も正確、声もいい、でも、

「心がこもってない、
 もっと歌詞の心を歌え」

と指導するのは、研ナオコ。

「かもめはかもめ」「愚図」など、
歌詞の心を表現し、聞く人の胸を揺さぶる歌を
歌い上げてきたベテラン歌手だ。

青木隆治と研ナオコ、

ふたりの考えが、最もすれ違ったのが、

青木が、
撮影スタッフたちにこう聞いたときだ。

「どこまでやればいいですか?
 番組的にどこまでほしいですか?」

青木としては、歌うたびに
自分の想うベクトルとは違う方向からダメ出しされ、
いっこうに出口が見えない状況で、

視聴者や番組制作の側から見たとき、
どこまでやれば、1回の番組として成立するのか、
プロとして、見る人の納得ラインまではやりきろう、
という責任感で言ったのではないか。

しかし研ナオコは怒りを通り越して、泣いてしまった。
この気持ちもわかる。

自分も、撮影スタッフたちも、
青木の歌手としての再生を
親身になって応援しているというのに、
その厚意を無視するような表面的なことを言うのか、
もっと一所懸命やれ、心からやれ
と思ったのだろう。

研は青木にこう言った。

「あなたには、感謝が足りない。」

私には、青木の言い分も、研の言い分も
わかった。
そして、どちらが悪いわけではなく、
両者の違いは、

「演技と表現」

青木隆治は演技するタイプ、
研ナオコは表現するタイプの
歌い手ではないだろうか。

(もちろん、そんなふうに
 パッキリ2つに分かれるわけではなく、
 どんな人の中にも、
 演技する部分と表現する部分はあるのだが、
 基本姿勢として。)

どちらのやり方もありだ。
そして、どちらも第一線で人をたのしませている。
だが、同じ歌を歌うといってもアプローチは
随分違う。

青木がマネるとき、
そこに一切の「自分」は混ぜてはならない。

たとえば、美空ひばりの「愛燦燦」を歌う時、
「俺はこう想う」とか、
「俺ならこう歌う」とか、
「俺は青木隆治だ」とかを
1ミリも混ぜないで、
むしろ歌と自分を完全に遮断しようとして、そして、

「美空ひばりは喉をどうつかうか」、
「美空ひばりはこぶしをどうするか」、
と、観察と研究と鍛練で、

美空ひばりの仮面を完璧にかぶりきる。

青木はこうして、一度に10も20もの仮面を
次々と変えても、消耗せず歌い分けることができる。

100の仮面を被ることも可能だ。

一方、研ナオコは、
中島みゆきを歌っても、
サザンオールスターズを歌っても、
「研ナオコ」色にして表現できる。

偉大で個性の強いアーティストの歌に
のっとられることなく、
かといって、我を出すのでもなく、
歌詞の奥にある「心」をつかみ、
その世界に自分の身を投じ、自分のものにし、
歌の世界と自己とが渾然一体となって表現する。

研は青木に、
「感謝が無い」といったが、
努力と鍛練で仮面を被る人にとって、
演技は、「奉仕」であり、「お仕事」そのもの
無理もないのだ。

「見る側の人間にとって説得力があるかどうか」。

そう考えると、青木が、
ドキュメンタリーの出口を、
どこまでやればいいかとスタッフにたずねたのは、
もっともなことだ。

一方で、歌の世界を表現する研は、

歌詞の心を表現することによって、
そこと一体になった自分の何かをも表現する。
表現することで、まず表現者自身が解放され、
同時に聞く人をも解放する。

解放と解放で通じ合うので、
お客さんは、歌手に、
歌手のほうも、聞いてくれたお客さんに、
互いに「ありがとう」言いたくなるような歓びがわく。

感謝が生まれる。

私は、本当の感謝というものは、
ある程度、自分の中にあるものを出してみて、
受け取ってもらえてからしか生まれないんじゃないか、

表現せずして、感謝も生まれないと。

青木が研の要求に、もし、応えるとしたら、
それは、感謝というような精神論ではなくて、

「表現」というアプローチのやり方を、
一から覚えて、コツコツ鍛えて、
時間をかけてやっていくしかないし、
やろうと思えばやれるのだと思う。

最初は、自分の中にある想いを
正直に歌に表すことからはじめ、
それができるようになったら、今度は、
歌の心をつかんで表現できるように、
コツコツトレーニングを積んでいけば、
表現はどんどんできるようになるだろう。

ただ、演じることに長け、それで充分に成功して
お客さんを喜ばしている青木本人が、
それを望むかどうか?

そうすることがよいことかどうか?

正直言って私もよくわからない。

自分を一切混ぜず、
真似る歌手の仮面を被りきる。
この技術と経験を突き抜けた先に、
なにか新しいものがあるんじゃないかとも思う。

演技か、表現か。

人は自分の求めに応じて、
どちらの能力も、また両方でも伸ばしていける。

そして、どちらにも努力と持続が要る。

どちらを選ぶかの選択は、
日々、目の前にあると私は思う。

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2014-02-05-WED
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