YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson580  仕事の選択 6


「ほぼ日」の読者の質は、
ネットの奇跡といえるほど高い。

それは、ひごろ「おとなの小論文教室。」で紹介する
読者メールからも自明だ。

とくにこちらから、
こんなメールはくれるな、
こういうメールをくれと
お願いしていないのに、
読者のほうで、各コーナーの性質を読み取って、
適切なリアクションをくれる。

だからこそ、たまーに、

それこそ、年間に数えるほど少ないのだけど、
このようなメールがくると、
いまさらどうしていいかわからないほど、
ショックを受けている自分がいる。

そのままは載せられないので、
たとえばこういう傾向のメールだ。

「ツイッターで愚痴ぐらい言ってもいいじゃないですか。
 そんなに考えてつぶやかなきゃいけないんですか。
 ズーニーさんが大好きだったのに、
 ついていけません。」

「働きたくないあなたへを読んで投稿しました。
 私は働いていません。
 病気を繰り返すうちに働きたくても働けなくなり、
 そのうちに働きたくないと思うようになりました。
 人間、働かなくたっていいじゃないですか。
 そういう人間も認めてください。」

はい。

あなたの言うとおり、
まったくそのとおりで、

ツイッターで、
愚痴を言おうと、悪口を言おうと、
本人の自由であり、

よほどのことがない限り、
日本では、表現の自由が認められている。

愚痴はときに、人間味やかわいげにさえなると私は思う。

また、私の母も、専業主婦で、
私自身も、働けない、働かない期間があり、

働かなくてもまったくかまわないし、
働くか、働かないかにかかわりなく、
人は人として尊重されなければならない。

人は生きてるだけで素晴らしいのだ。

それは「大前提」という良い意味での
「あたりまえ」だ。

にもかかわらず、
私がなぜ、この種のメールにとまどうかと言うと、

それが「仕事の領分」を越えてしまっているからだ。

誤解を恐れずに言うと、
この種のメールは、

「あなたはあなたのままでいい。」

というリアクションを求めている。

そして、それは、
「教育の仕事」が、実は最もニガテとする領域だと
私は思う。

「医療」と、「福祉」と、「教育」。

3つは似ているようで、全然ちがう。

そこに病気がある限り、
「治そう」とするのが医療だ。

一方、病気の人が病気をかかえたまま、
いわば、ありのままに、
地域や社会にとけこんで、
その人らしく生きるのを「支援」するのが福祉だ。

教育は、つねに「その先」へ導くのが仕事だ。

教育は、治さない。
治すチカラもない。

そして教育は、
「ありのまま、そのままのあなたでいい」とは
決して言えない。

字が書けない人には、
とにかく文字を覚えさせようとするし、

どうにか書けるようになったら、
よりよく書けるように、

つまり、もっと実感がこもるようにとか、
もっと相手に伝わるようにとか、言い出す。

それができるようになっても、
決して「そのままでいい」とは言わず、

より説得力をとか、
多くの人から共感されるようにとか、
創造性の高い文章をとか、

とどまるところを知らず、
先へ、先へと、
背中を押し続け、導き続ける、
因果な商売が、教育なのだ。

私は、教育の分野一筋で、28年きた。

教育の無力を痛感したのが、
3月11日の大震災のときだ。

「生きてるだけでいいんです!」

という精神科医の香山リカさんの言葉が、
どんなにかっこよく感じたか。

同じタイミングで、私がやっと発信できたのは、
「考えることの限界を思い知って、
 それでも、私は、考えることをやめない。」
だった。人が生きるか死ぬかのときに、
なんと弱弱しいメッセージだろう。

香山リカさんは、「医療」にいるので、
死ぬか生きるかの人を、死なせない。
命を救う、というベクトルで、経験も能力もある。

一方、「教育」は、
生きるか死ぬかの状況に弱い。
そのエリアで経験やノウハウを積んでないのだ。

例外はあるが、
通常、命はあるという前提で、
教育が受けられる程度の健康状態はある、
という前提で、
そこから「より良く」「より優れたほうへ」導くことに
経験も能力も積んでいくのが教育だ。

「医療」と、「福祉」と、「教育」。

この3つは、つねに、
中高生にも、大学生にも人気だ。
どれもはっきりした他者貢献で、
営利を最優先にしないところも、
まだ働いたことのない青少年には、
仕事のイメージがわきやすいからだろう。

それゆえに、
この3つは、仕事選びで混線しやすいのも事実だ。

わかりやすいので、
以前紹介した女子学生の例をもう1度紹介する。

ある大学生の女子は、
ずっとずっと養護学校の教員になろうとして、
努力を積んで、単位もとってきた。

ところが、

3年生になって、
養護学校に教育実習でいって、
現場に出たとたん、
「あれ? これは、違う!」
と一発で直感した。

彼女は養護学校の教員になるのが夢で、
早い段階から、たとえば手話通訳のボランティアなど、
ずっとずっと障がい者にかかわる活動をしてきていた。

だからこそ、持つことができた、違和感だった。

結局、彼女は、
指導者の立場に立って、
障がい者を導く「教育」ではなくて、
障がい者がやりたいことを支援する
「福祉」をやりたいのだ
と気がつく。

彼女は、それまで取得した単位などを
おしがらず、あっさり捨てて、
「社会福祉士」になるべく、コースチェンジをした。

私は、「現場に出てみて初めてわかった」というところが
みそだと思う。

頭であれこれ考えるというよりは、
他者に向かって、医療なり、福祉なり、教育なり、
実際におこなってみて、初めて気づく部分も
あると思う。

たとえば、目の前に、
まったく目の見えない少女がいるとして、
自分だったら、どこにいちばんフォーカスするだろうか?

なんとか目が治らないものか、
少しでも可能性があるなら治したいというのは、
医学や、薬学など、医療に向かう発想。

目が見えない状態で、地域や、社会で
バリアを感じることなく、
彼女がやりたいことができるように
支援していきたいという人は、福祉に向かう発想。

彼女の持っている可能性、
音楽なら音楽、文章表現力なら文章表現力を、
いまより、一歩、次には、さらにその先へ、
さらに先へ、先へと、最大限に引き出し、伸ばしたい、
と思う人は、教育に向かう発想なのだ。

「ツイッターで愚痴を書いていてもいいじゃないか」

という人に対し、
そのままでいいとは、やっぱり言えない。
人間は生きているだけで素晴らしいんだけど、
そこを素晴らしいとは言わない、
そのままでいてはいけない、というのが教育だ。

あなたには文章表現力がある。

もっと伝わる文章へ、
もっと自由な表現力へ、
もっともっと書いてる人も、読む人も解放されるほうへ、
その先へ、その先へと、
私には、背中を押し続けるしかできない。

「働かない自分を認めてほしい」

という人に、
教育バカなのか、限界なのか、器が小さいのか、
やっぱり、マザーテレサのようなスタンスで
優しい言葉をかけようと試みるも、
どこか偽善のような、なにか越権行為をしているような、
罪悪感を感じて、立ち止まってしまう。

まるごとその人を受けとめるというのは
「家族」の領域ではないか。

いくら優しい皮をかぶっても、
家族や、本気で福祉に携わってきた人や、
医療をやってきた人にはかなわない。

私がやっているのは「教育」だ。

いまは強くはなれない人が、
医療や、福祉や、家族の支えで、
ゆっくりと、元気をとりもどしていき、
もしも将来、自然に心がむいて、
また「働きたい」となったら、

1ミリでも2ミリでも、自分を伸ばしたいと思ったら、

そのときは、私のいる「教育」の領域へきてほしい。

そのときは、納得できる進路選択への思考法、
面接やエントリーシートで伝わる文章表現力など、
サポートしたい。

ごめんなさい。

いまはやっぱりそれ以上言えない。

そこに可能性がある限り、
1ミリでも2ミリでも、先へ先へと導き続けるのが、
自分の限界であり、自分の選択だと思う。

きょうも、仕事の選択に関わる
読者のおたより、
悩み、苦しみながらも、決して強くなくても、
1ミリでも、先へ進もうとする人のおたより
を紹介して終わりたい。


<差し伸べられる手をつかみにいった>

2回の転職をしたものです。

現在の職場を選んだのは、「選んだ」という言葉より、
「差し延べられた手をつかみにいった」という言葉の方が
当時の僕の心を映しているように思うのです。

相手(他者)がいて、相手の行為があって、
自分がそれに反応したように思うのです。
(鈴木)


<まだまだ選べる>

「仕事の選択」シリーズは、
正直「他人事」として読んでいました。

今の自分は、仕事を選択できる立場にないよなぁ‥‥、と

でも、先週のコラムを読んで、気がつきました。

ここで言う「仕事」って、
=「職」という意味だけじゃなく、
「仕事と向き合う姿勢(気持ち)の選択」
という意味も含まれている。

自分がいまの仕事・組織上の立場と、「どう向き合うか?」
は、まだまだ選べるんじゃないか?
(ひげおやじ)


<やりたいことのために>

仕事の選択 5を読ませて頂いて、

「魅力的になるための魅力ではなく、
 強くなるための強さではなく、

 目標達成のために、意図せず引き出されたからこそ、
 自然・天然なのだ。」

という部分に、とても共感しました。
私も、数年に渡って、どん底といいますか、
仕事でも私生活でも随分苦しい時期を過ごしました。

そのどん底の期間、あれこれともがきましたが、
今に至る転機になったと感じることがあります。

それは、神社などで願掛けをするとき、
それまでは

「‥‥になりますように」、
「‥‥が手に入りますように」、

といったお願いの仕方をしていたのを、
ある時から

「自分は‥‥をしたいので、力を与えて下さい。」
というのに変わったことです。
といっても、意図的に自分で変えた、というよりも、
自分でも分からないくらい、自然に変わりました。
(きゅう 40代 男)


<仕事の社会的意義>

私のためにしている仕事では、
自己満足またはお金のため。

相手のためにしている仕事では、
なんでも言いなり、自己犠牲の自己陶酔。

第三の価値が仕事人の格を決めるような気がします。

社会的意義、または歴史的意義を頭のどこかに置くことで、
迷ったときに方向性を決めることが出来るのではないか?
(人それぞれ)


<揺らぎながらも行動を起こす>

先週の最後の「れん」さんのメールに、
心を揺さぶられました。

れんさんは、
仕事を辞めるという自分の決断に対し、
それを告げたとき、あまりに周りが悲しんだという反応に
「こころがゆらぐ」と。

同感です。そうなんです。

何か自分が行動を起こすと、
必ずそれに伴って反応が起きるので、
本当にこれでよかったのか、と、
心は揺らぐんです。

人間だれしも、「揺らがないことはない」。

けれども、心が揺らぎながらも行動を起こし、
そこで起こった事をしっかりと受け止めた時、
揺らがない自分に出会えるのではないでしょうか。

その、本人にしか分からないような思いを、
他人に分かるように心を砕いて表現した言葉に出会うと、
私は心を揺さぶられるような気がします。

その時こそ、自分の中から何か湧きでてくる力を感じます。

3月、私にとっても区切りの月です。
他者との距離感という新しい視点で、
もう一度自分の仕事と向き合ってみたいと思います。

心を揺さぶってくださり、
ありがとうございました。
(潔子)



山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2012-03-21-WED
YAMADA
戻る