YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson563
  加工品にさえ生を見出す眼



ここ数回にわたっておおくりしている
「生ものシリーズ」は、
おかんシリーズのような爆発的な数はないものの、

わくわく、ぞくぞくするような
クリエイティブなおたよりがくる。

そこへまた、クリエイティブな読者からの
熱い反響が来て、濃く深く進展しているシリーズだ。

万人にわかりやすくひらかれたコラムも
とてもいいとおもうが、

「一部の読者と濃く深く、行ける所まで行ってみる」

こんなシリーズも、あっていい。
ネットでこそできる、ネットならではの愉しみだ。

きょうは、
この読者の「問い」に対し、
私の考えを書いてみたい。

先週紹介したyouさんのおたより
再度、こんどは全文を掲載するので
まずお読みください。


<もっと生を吸収し、生を創りたい>

デザイン関連の仕事をしております。
youと申します。

「生もの」のお話、
私がこれまで漠然と感じてきたことを、
同業者(といっても私はまだまだ経験が
浅いのですが‥‥)の竜さんが
的確に表現してくださいました。
それとともに、私にとっての発見がありました。

私はグラフィックデザイン関係の仕事をしていますが、
竜さんのメールにもあった通り、
現場は「加工品」を消化していくことが
当たり前の状態です。

世の中は加工品で溢れています。
書店に行けば、レイアウトの手法やフォーマット、
いろんな雑誌の文字の大きさや余白の幅など
細かいところまで詳細に
調べ上げられている専門書はたくさんあります。

こんな雰囲気でつくりたい、というものがあれば
それと似たようなものを見つけてきて
その通りにデザインすれば
それなりのものはできます。

私は、そのようないわゆるデザインの技法書から
デザインを取り入れようとは、
どうしても思えない人間ですが、
だからといって
自分のオリジナリティ溢れるデザインができるか
というと全く、です。
ある程度、仕事と呼べるものをつくるには、
加工品なしには、いろいろ成り立ちません。
じゃあどうすればいいのか。

どうやって生ものを取り入れればいいのか。
生ものと加工品の見分けをどうつければいいのか。

私はまだまだ経験の浅い人間です。
見識も狭く、あらゆるものを加工品扱いしてしまいます。
そして、そうやって、
本来生ものの輝きを帯びているものすら、
自ら加工品に貶めてしまっている気がします。

自分にとっては加工品と思えるものでも、
別の人にとってはそれが生ものとして
色鮮やかに生き生きと映ることがあります。
そして、そんな人が生み出したものは、
明らかに生のオーラを帯びています。
そういうことを何度も経験してきました。

私とその人の間の違いは何なのか。

「学ぶ」という言葉は、
真似るという意味の「まねぶ」を語源とする、
とうのは有名な話です。
「学ぶ」姿勢で真似をするのは、
「パクる」とは訳が違います。
そこには、その人が一旦自分の血肉とした結果、
その肉体から生み出された力が感じられます。
血が通っています。
学ぼうとする姿勢があるかどうか、

そこから学びたいという強い思いがあるかどうかで、
加工品と思えるものでも生ものにもなりうるのだ
と言えるのではないでしょうか。

逆に、いくら生ものと呼ぶにふさわしいものでも、
その表面だけを模倣するようでは、
ただの加工品となってしまうのだと。

いわばその人が生ものだと感じるものの多さが、
そのままその人の人間の大きさ、
見識の深さを表しているのだと思います。

「まねぶ」訓練を積み、
自分にとっての生ものを増やしていった人こそ、
本当の生ものを産み出せるのかもしれないと
思います。

大きなものからは、大きなものが生まれる。

私の尊敬する先代のデザイナーたちは、
自然、人、生活、娯楽、
それこそありとあらゆるものから
生ものを吸収したのでしょう。

だからその人の産み出す物は、
あらゆる側面で生ものだと言える。
本当に畏れ多いです。
一体いつになれば、
そんな大きな人間になれるのでしょう。

もっと生ものを見つけたい。生ものを増やしたい。

一見加工品に見えるものからすら、
生を見いだせる力が欲しい、今はそう感じます。
(you)



あくまで例だけど、

編集者が雑誌の「温泉特集」をつくるとき、
ほかの「旅雑誌」や「温泉ムック」を買い集めてきて、
あちこちパクってつくるとか、

デザイナーがポスターをつくるとして、
「賞をとったポスター」を100枚集めてきて、
その「構図」とか、「配色」をパクってつくるとか、

バンドが音楽をつくるときに、
ミスチルとか、スピッツとか、
好きなバンドのパターンをパクって、
結局リスナーに、
「ミスチル風」とか、「スピッツ風」とか
言われてしまうなど、

ようするに、

「自分のやることに、もろ、直結した加工品」から
栄養を採りつづける回路にはまると、

安易なパクリで、
発想力も、考える筋肉も、やせおとろえ、
疲弊していく、と以前お話した。

優れたつくり手は、
自然や、人間とのかかわり、旅、生活など、
加工・調理されていない「生」を養分にすると。

この話を、読者のyouさんは、
充分理解したうえで、ひとつの面白い「問い」を
投げかけてくれている。

「優れたつくり手は、
 一見、加工品と思えるものにも、
 いきいきと色鮮やかな“生”を見出し・吸収できる。
 そういうつくり手が生み出すものも、
 やはり、“生”。

 一方で、パクろうとする人間は、
 たとえ生を目にしても、
 表面的な模倣にとどまり、
 生も、加工品にしてしまう。

 あらゆるものに、
 一見、加工品とさえ見えるものにさえ、
 “生”を見出し・吸収する力とはなにか?」


このメールを読んで、
すぐ思い出したのが、
画家「横尾忠則」の、「小学生」へ向けた授業だ。

以前も引用したが、何度でも引用したい。

なぜなら、
「独創性の教育」の真髄が、
この授業にあると私は直感するからだ。

横尾忠則が、
こどもの独創性を引き出すために、
使ったものは、

自然の山でも、
天然の滝でもない。

旅に出させるとか、
座禅を体験させるとか、
そういった「生のもの」ではまったくない。

加工品の最たるもの、

このコラムで何度も「それをやっちゃあおしまい」
と私が言ってきたもの、そう、

「他人の絵」だ。

「他人の絵」をうつさせる。

知らない人が見たら、
他人の絵をもってこさせて、
パクリを教えていると誤解するかもしれない。

でも、その一見パクリともとられかねない授業が、
こどもの独創性を引き出した。

だけではない。

絵を描くのが嫌いになっていたこどもたちが
絵を好きになった。

独創性を引き出す授業で、
これほどシンプルで、
これほど目に見えて教育効果が出たものを
私は見たことがない。

上記は、NHKの番組で、
横尾忠則が母校の小学校でおこなった
絵の授業だ。

通常の授業で、こどもたちは、
「みんなおんなじ」ような絵を描いていた。
ひらべったい構図、
お人形のような人物たち、
空は青、唇は赤、ひまわりは黄色、
といった「お約束」の色づかい。

横尾忠則は、
事前にこどもたちに連絡して、
「自分の好きな絵」を1枚もってこさせていた。

こどもたちは、もっと「漫画」とか、
「キャラクターもの」とか持ってくるかと思ったら、
意外にも、「絵画」っぽいものを持ってきていた。
ピカソを持ってきた小学生もいた。

横尾は、こどもたちに、
まず、持ってきた絵を忠実にうつさせた。

つまり「模写」をさせた。

そのあと、こんどは、何も見ないで、
「記憶」で、同じ絵を描かせた。

記憶力が良いこどもたちは、
もとの絵を見なくても、
すいすいと再現するかとおもいきや、

もとの絵を、あえて改変して描きたい、
という子が、つぎつぎあらわれた。

もとの絵では、2匹だった動物を
3匹に増やしたいとか、
もとの絵とはちがった色で塗りたいとか、
こどもたちは次々主張し、
そのたびに、横尾はそれを快く許可し、
奨励していった。

結果、記憶ちがいではなく、
こどもたちが、記憶していた原典に
意図して改変を加えた絵が
つぎつぎと描きあがった。

クラス全員の絵をならべてみる。

以前の画一的な絵がならんでいたのとは
まったく違う風景がそこにあった。

クラス全員が、ひとりひとり、
まったく違う、オリジナリティあふれる絵を描いていた。

模写だけをクラス全員ならべたものより、
「記憶」で描かれた絵たちは、
もっともっと個性が炸裂していた。

授業がすんだとき、
こどもたちは、絵を描くことも、
横尾忠則も、大好きになっていた。

「解放されたのだ。」

見ていて私は、そう思った。
こどもたちは、身の内にあって、
出したくても出せなかったものを、
横尾の授業によって、見える形で外へ出せた。
その「解き放たれた快感」がえもいわれず、
絵を描くことの歓びを知ってしまった。

限られた授業時間、
「模写 → 記憶」というシンプルな手法、
そこで横尾がやったことは、

こどもたちに、
加工品からすばやく「生」を抽出・吸収させること、
かつ、自ら「生」を生み出させることだ。

「描きたいものがあるか?」

私は、それが、
あらゆるものから生を見出し・吸収する力
の源だと考える。

文章で言えば、「書きたいもの」、
作曲家なら、「つくりたい音楽」、
仕事人なら、「やりたいこと」、‥‥。

「強い衝動」というか、
「根源的な希求」というか、
「シンプルに魂が呼ぶ」というか、

そういう「つくりたいもの」「やりたいこと」があるか?

それが、生を生と受けとめ、ときには、
加工品からさえ、生を抽出する力となると。

次から次へと締め切りが設定され、
締め切りごとに、「アウトプット=出す」ことを
迫られる職業デザイナーとはちがい、

こどもたちは、「出す術」を知らず、
「出し方」すらも教えてもらえず、

それゆえ、知らず知らず、体の中に
「表現したいもの」がたまっていた。

その状態で、「1まいの絵」を持ってこさせる。

無意識に選ぶのは、
なんらかの自分の心の奥底の衝動と重なるものだ。

そして意図もあかされず、
持ってきた絵を模写させられる。

うつしながら、手と体と感覚が覚えていくのは、
ピカソならピカソなりの、
「出したいものを出す手続き」だ。

模写ができたら、おなじく
意図もあかされず、「記憶で描け」と言われる。

この「意図も明かされず」がかなり大事で、

このように言われたら、人は、
「いい絵を描いて褒められよう」とか、
「自分らしい絵を描いて目立とう」とかいう、
邪心がなくなって、
無目的にならざるをえない。

個性とか、創造性は、要求されていないのだから。

こどもたちが、無目的・無防備に、
記憶をたよりに絵を描き始めたとき、
まだ手と体と感覚に鮮明に残る
「出す手続き」に従って、
無意識に出してしまったものは、
「自分の出したいもの」だった。

だから、このようにして書かれた絵は、
こども一人ひとりの独創性を解放したのだ。

完全に無防備・無目的になって、
自分の出したいものと向き合い、ひたすら出す。

これが、「日切りでものをつくらなきゃならない」とか、
「賞をとらなければならない」とか、
「クライアントに気に入られなければ」であったなら、
絵という加工品に向かっても、
ピカソという巨匠に向かっても、
表面レベルの模倣にとどまるのみ
だったかもしれない。

でも、こどもたちには、
無意識に「描きたいもの」があった。
そして、「模写 → 記憶」という手法をあてがわれ、
そこに無防備にならざるをえなかった。

これは、文章を書くときに、
「全部うそを書け」といわれ、
うそを書いているときのほうが、逆に
その人の根底にある美意識や価値観が、強く表われ
読む人にさとられてしまうのと似ている。

人は、「創造性」などという目的をかざされた瞬間に、
エゴにとらわれてしまう生き物なのだ。

天才のナビゲートによって、
心の奥底の「描きたいもの」に、
はからずしも無防備になってしまった子供たちは、

「絵という加工品」からさえ、生を吸収し、
「ピカソという巨匠」でさえも、模倣の対象でなく、
自分の出したいものを出す手段にまわしてしまった。

「つくりたいものはあるか?
いかにしてそこに無防備になるか?」

と、きょうは、ここまで考えた。

最後に読者たちのメールを紹介して
今日は終わりたい。


<最近の自分を見ていて思うこと>

練りに練って悪戦苦闘して、
何とか、生み出した作品というのもあれば、
練りに練るところまでは同じだが、
すーっと出来上がる作品もある。

原稿でも、取材してテープ起こしもして、
何をどう書いたらよいか
なかなか決まらない時もあれば、

一度自分の腹に落として、
自分は何を伝えようか、それが決まると
すーっと言葉になって、
見る見ると原稿が書けるときもある。

取材と構成の段階は、
取材したものを消化し、練る時間だ。

とても下品な例えをするが、
表現とは、便意を催すように、
自然と排便する行為に似ているような気がする。
便意がさほどないのに、
力んで出そうとしても体は正直だから出てこない。
自分の中から溢れて出てくる行為が表現ではないか。
(この爽快な気分が快便とよく似ているので、失礼)

ただし、ただ、たくさんの取材をしたら、
自然と溢れるように作品が出来るわけではない。
取材したものを一度自分の中に叩き込む、
消化する、吸収する
という行為が必要だ。寝かせておくこともいる。

そこに、思想やアイデアや
その他の刺激もふりかけていくと
いつしか醗酵してくる。
そして堰を切ったように溢れ出て来るときがある。

そんな経験をした。

消化・吸収している段階は、
時に七転八倒もするが、自分の畑を耕すような
行為でもある。
そして取材したモノを全て消し去っても、
畑は耕されている。
そこには、目の前の、現実を受け入れる用意が
自分の中に出来ているような気がする。
それが、「現場に向き合う力」なのかと考えた。
(いわた)


<書くとき手放すのは自分だったりする>

フリーライターをしています。
「準備をして手放す」。本当にそうだと思いました。
取材の前は、時間と戦いながら可能な限りの準備をして、
取材が始まれば白紙になってお話を伺う。
「こんなに準備してきましたよ」と
アピールしたくなるときは、
何かが、もしかしたら何もかもが
中途半端なときかもしれないです。
書くときだって同じで、手放すというのは、
自分を手放すことだったりもしますし。

「生ものシリーズ」たくさん刺激を頂いています。
とてもとても面白いです。
(みゆき)


<読者メールは出色>

先週の読者メールは出色だったなぁ。
まずyouさんの
一見加工品に見えるものからすら、
生を見いだせる力が欲しい。

とても共感しました。
加工品を食べても、
じぶんの思考力やイマジネーション、
そしてこれまでの生の経験から、
その加工品から「生性」を見出す。
なんだか武道の世界に通ずるものがある気がします。

そして、潔子さんの
準備をした通りにやらないほうがうまくいく、
から準備をしなくてもいいのではなく、
準備をしたからこそ、
その通りに行かないことがokになる
これはうんうんうんと頷けるものでした。

準備をしたからこそ、
その通りに行かなくても「補える」
「落ち着いて対応できる」「余裕のある判断ができる」
そして「おもしろがれる」というのもあるんでしょうね。
(あおい27)


<捨てて跪く覚悟はあるか>

学びは現場にこそある

教育、医療、そう、
現場には作り込んだシュミレーションにはない
ドラマがある。

先週の精神科医の読者、
パニックも迷惑も込みで、
その人そのものをわかり、おさめ、
つながろうとしているのでしょう。
ああ素敵。
自分だって地続きの所にいると、
どこかで思っているからこそ、
醍醐味も味わえるのだと思います。

看護教員の方、
患者様から学べといっているでしょう?
そうよ、ペーパー患者をいくら作りこんだって、
LIFE/LIVEに勝てるわけないのよ。
そこを自覚して、その上で臨場感を感じてもらえるよう
工夫するくらいしか、学内ではできないと思う。

素人だろうが、プロと言われる職人だろうが、
人間の受け止める幅を試されていると
思わざるを得ません。
拙くても、自分の見栄や功績を捨てて、
跪く覚悟があれば、きっと一皮むけると思う。
(ぐりぐら)


<人を見分けるチカラ>

生を食べ、オリジナルを生み出すことは、
計り知れない労力と
遅々として進まない不安定さを伴うもので、
これは皆さん共通にそうありたいと願っておられます。

この他に、生を食べているヒトを見い出し(見分け)
評価できる眼力が、非常に必要だと思います。

小さい頃は、師から評価され、
大きくなったら、仲間同士が師となり評価しあい
または世間の評価を受けることで、
レベルが高まっていくと思います。
今はあまりにそのような師が少ないと思いますが、
ズーニーさんのコラムで、
こういうことに互いに気づき合えるような文化が
日本に広まるといいなと思います。
(もも)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2011-11-09-WED
YAMADA
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