YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson518
      失恋論


失恋ぐらいで人は死なない。

死ぬ人もいるんだろうが、
大多数の人は、
それでも生きなくちゃいけない。

これがツライ。

生かさぬように、殺さぬように、

すれすれのいいとこ
突いてくるんだよなぁ、失恋のボディーブローは。

色がなくなる。

ごはんが食べられなくなる。

なにかに気を向けると、
「だから何?」
とすぐさま無意味感がしのびよる。

なにかやろうと、元気になろうと
あがけばあがくほど、
ずぶずぶと、蟻地獄のように、
虚無感に飲み込まれていく。

虚しい。

「人間にはなぜ、これほど過酷な
失恋の痛みが課されているんだろう?」

少なくとも2年はツライと言う。

人によっては、5年も6年も……。
その間、げっそり痩せ、
気力をなくし、能率は落ち、
だれと会っても、出逢いをモノにできず。

生命の戦略としても、

失恋の痛みを軽減したほうが、
人はリスクなく、
恋愛にどんどん飛びこんでいけるわけだし、

失恋しても、3日でケロッ!と立ち直れる生き物だったら、
すぐ次の恋に飛びこんでいけるわけで、

子孫繁栄、種の存続を考えても、

2年も生けるしかばねになっているより、
その間、次々子どもを産んだほうが
生命戦略として正しいはずだ。

二度と会えないのなら、なぜ出逢ったんだろう?

二度と会えないのに、喪失感はなぜ何年も続くのか?

身近な人が失恋して、
自分の経験めいっぱい持ち出して、
ずっと「失恋」について考えていて、
わかったことがある。

二度と会えないんじゃない、未来に会えるんだと。

本当に出逢ったものなら、
未来に必ず。

失恋の痛みは、「先へ」行くために
必要なんだと。

誤解を恐れずに言うと、

「失恋こそが、人を進化させる。」

長く執拗に自分をさいなむ「喪失感の焦点」、
それこそ自分の求めるものだ。

失って一番哀しい相手の魅力はなんだろう?

人によっては、
「彼のすべて」とか、
「彼女の魅力の焦点は言葉にできない」
というかもしれないが、それでも、

他の人ではなくて、
その人にしかないもの、
その人に一番魅かれたところを、

あれよりもこれか、これよりも、
もっとここか……と言葉にしていくと、

例えば、
「自分はミーハーで本も全然読まない人間だから、
 彼の、たくさん本を読んでいて思慮深いところ、
 知的な雰囲気に魅かれた」
とか。

「芸術のゲの字もわからないような
 イモ姉ちゃんだった自分にとって、
 彼の芸術の才能、
 そこからくる自由な考え方は、
 まぶしいばかりだった」
とか。

他にも、温かい人柄、飄々とした精神、
己を貫いてる生き方など、

ほかの人とさしかえのきかない、
自分には無い、
それゆえ、失ったら何年も泣き続けるような魅力、

それこそ、失恋した人間が最も求めている価値だ。

そして、失恋した人は、
未来に、その価値を自分のものとする可能性がある。
時間もかかるし、
努力も並大抵ではないだろうが。

たとえば、
本を一冊も読まなかった人が、
別れた彼より読書家になり、
未来に、思慮深く、まわりをうっとり魅了するような
知的な雰囲気を漂わせていたり。

ゲージュツのゲの字も解さなかった
イモ姉ちゃんが、
未来に、自分のなかに
豊かな芸術観を育てていたり。

つまり、失って、
何年も、哀しみ続け、
いい意味で執着し続けていられるような価値は、

未来に、自分自身がそれになる
というカタチで再び出逢う。

恋は未来から自分に届く手紙だと
私は思っている。

人は「いま」を生きるしかない。

「いま」のキーワードは、MUST=やるべきこと。

いくら勉強しても、
いくら自己改革だ、といって欠点を修正しても、

結局、それは、
自分という狭い枠組みのなかで、
良いと思ったことを勉強して身につけ、
悪いと思ったことを修正しているにすぎない。

つまり、「改善」レベルであって、それはいいことだが、
なにかその人が劇的に変わるとか、
そういう進化ではない。

一方、「仕事」は、
過去から自分に届く手紙だと思う。

過去のキーワードはCAN=できること。

仕事として、銭になる部分は、
過去の自分の蓄積だ。

今知りつつあること、今身につけつつあることは、
こなれていないから、仕事にはならない。
まだ、人からお金をいただくほどに、
役立つものではない。

よって、何も考えず、
求められる仕事ばかりやっていたら、
そこで、太るのは、
「自分の過去」。

過去に努力して自分が積み上げた
知識・技術・能力が、
人から請われて、役立って、歓ばれて、
ますます太っていく。

それはもちろんいいことだ。
でも、それも、自分の枠組みの延長線上で
成長しているのであり、
何か劇的にその人が変化する
ということとは違う。

であれば、いったい、
突然変異と言っていいほどに、
人が、自分の枠組みを越えて、その先へ
進化するのは、いつだろう?

その契機が失恋ではないだろうか?

恋は、それまでの自分の人生・枠組み・価値観に
まったくない、未知の領域からくる。

それまでの自分の辞書にないものを
もった人間を初めて目にするので、
驚くし、新しい風が吹くし、理解できないし、
わからないからこそ魅かれていく。

自分の未知の領域からビリビリ直感がくる。

もちろん、自分と共通項の多い人に魅かれるとか、
自分の枠組みにすっぽり納まる人がいいという人もいて、
それは自由なのだが、
それだと、家族愛や、友情でもいいわけで、
恋ならでは、と考えると、

「自分の枠組みの外=未知=未来」

からくると、
あくまで私は思う。

未来のキーワードはWANT。

自分に無い、未知だからこそ、ほしい!
ほしくてたまらない!
なんとしても手にいれたい!

で、「結婚」というのは、
自分に無いものをもった人を、
伴侶として、自分のそばに持つ行為。

「失恋」は、
自分に無い、それゆえ欲しくてたまらない、
もし失ったら喪失感にあえぐものを、
未来に自分の中に持つ可能性の高い行為、
だと私は思う。

もちろん失恋した、
それだけで人は進化できるわけではない。

コツコツと気の遠くなるような努力が必要だ。
でも、それをやりきれる可能性が高い。

すくなくとも、結婚というカタチで傍らに置けないのだし、
ないと、死にそうなくらいツライのだし、
喪失感を何年も持ちこたえられるくらい、
いい意味で執着し続けられるのだから、

「努力の動機」は充分、
持続も可能、というわけだ。

これを生かさない手はない。

その人のそれまでの延長線上とは違う成長、
その人の枠組みを越えた、
突然変異ともいえるような「進化」、
たとえば、

学校の成績はいつも赤点、
大学進学どころか、卒業もアブナイという女子高生が、
お医者さんの彼氏に
知的で人の命を救うところに魅かれ、

失恋後、一念発起して、医学部を目指し、
何年もかかって、自分が医師になり、
知的な雰囲気をただよわせ、人の命を救っている、
なんてこともあると私は思う。

人間だけになぜ過酷な失恋の痛みがあるか?

人は、自分の枠組みの外になかなか飛び出せず、
予定調和の成長をしていく生き物だ。
それもいいことだが、
それだけでは面白くないから、
ときに、突然変異とも言える進化をひきおこすために、
長く過酷に続く喪失の痛みを課されたのだと。
勝手に私は、そう信じたい。

本当に出逢ってしまったもの、
失うと生きられないほど大切なものを、
あなたは何ひとつ失っていない。

未来に逢える!

だから、その色の無い、虚しさだけの道を、コツコツと
進んでいればいい。先へ、先へ、そのまた先へ。

喪失感こそ可能性である。

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2010-12-01-WED
YAMADA
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