YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson483
   「働きたくない」というあなたへ 7



先週、「早く死にたい」という、
あまりにも意外な言葉に出くわし、

頭では受け止め切れなかった私だが、
なるほど体に感じた衝撃は、
就活セミナーで、
「楽しく生きる」という言葉に凍りついた瞬間と
そっくり同じであったことに打たれてしまった。
そして、涙があふれ、とまらなくなった。

「考えないという傷」が、

「進路選択にしても、受験勉強にしても、
 苦しみを自覚している子はまだいい。
 “なんとなく”で生きている子ほど、
 いま受けている傷は深いのではないか」
だとしたら。

これになぞらえて言えば、

就活がツライ、やりたいことが見つからないと
悩んだり、苦しんだりしている人はまだいい。
“楽しく生きる”でやりすごそうとしている人ほど、
いま受けている傷は、深いのではないか?

読者のベルさんはこう言う。


<「諦め」と背中合わせに揺れるもの>

現在就職活動中の、社会人11年生です。
先週のコラムも考えさせられる内容でした。
感想を送らせて戴きます。

「早く死にたい。」衝撃的な言葉でした。

(こんな力がある読者の存在にも驚きましたけど。)
全く予想もつかない見解でした。
同時に、以前読んだ本の中に、
こんな言葉があってそれを思い出しました。

「世の中には20歳で死んでいるのに、
 80歳まで生きている人がなんと多いことだろう。」

そしてズーニーさんの、
「助けてほしい」の言葉を読んだとき、
涙が溢れてきました。

私も今、就職活動中の身。
でも、今のこの状況は、自分で選んでここにある。
なのに、この言葉に心が鷲掴みにされました。
やだ、あたしったら、そうだったの、と発見しました。

社会と繋がれてない状態の人は、
同じ叫びを抱えている。
社会人経験がある人間ですら、

諦めたい思いと常に背中合わせで揺れ動いている。

学生さんなら、なおさらですよね。働きたくなくなる。
でも、働かなくては生きていけないことも知っている。
苦しいですね。

私は就職超氷河期世代なのですが、諦めませんでした。

なんで諦めなかったのだろう?

う〜ん、やっぱり‥‥成長したかったんだと思います。
知りたかったし、見たかった。
やるしかなかった‥‥かなぁ。

でも、今別のことで諦めようかという想いに、
日々にさらわれそうになっています。
それはたぶん、「早く死ぬ」ことを意味しています。

働いてからも色々あるなんて知ったら、
尚更、諦めたくなっちゃうかなぁ。

働くと、自分の居場所が出来る。
そして自分に向けて周りの理解が注がれた時、
自分自身を実感できて、幸せな気持ちになるのもまた事実。

みんな幸せになりたいのに‥‥難しいですね。

でも、悩みは前進している証だと信じています。

ふぅ〜。
(ベル)



「世の中には20歳で死んでいるのに、
 80歳まで生きている人がなんと多いことだろう」
という言葉を聞いて、反射的に思い出した光景がある。

私がまだ、会社に勤めていたころ、
13年間担当した小論文の編集から、まったく別の仕事へ、
人事異動を言い渡された日のことだ。

何を思ったか、普段決してそんなお金の使い方はしない、
高額のCDコンポを衝動買いした。

当時のコンポは、まだとても大きく重く、
配送してもらうのが常だった。
なぜか私は、せっかちに、手で持って帰ると言い張った。

「きょうすぐ聞きたい。今すぐじゃないと意味がない‥‥」

そしてまた、普段決してそんなお金の使い方はしないのに、
新宿の量販店から、郊外にあったアパートまで、
電車でなく、
高額のタクシー代を払って、コンポを持って帰った。

人格に似合わないお金の使い方をし、
いったいどうしたと、自分を疑っている自分に対し、
私は、

「ごほうび、ごほうび」

と必死で言い訳をした。

「13年間、必死で小論文をやってきたんだもの。
 休む暇さえなかったんだもの。
 これからはもっと楽しく生きなきゃ!
 アフターファイブもエンジョイしなきゃ!」

私は、なんか必死で、頭の中に次々言葉を並べ、
「楽しく生きる」へ、自分をしむけようとしていた。

コンポを取り出し、ぜんぜんそんな気分じゃないのに
鼻歌をうたい、ダンスを踊るように体をゆすった。

しかし、楽しくしむけようとすればするほど、
体の中の「妙な感覚」につかまりそうになる。
つかまらないようにするために、またまた次の
わかりやすい、はっきりした、楽しさを追い求める。

体の中の妙な感覚が「喪失感」であることに
気がついたのはずっと後だった。

泣いたのは数週間後で、
それまでは、涙はおろか、自分が悲しいのだという
自覚さえなかった。

ただ、自分の心身が自分のものでないような、
自分と自分が、遠く離れたような感覚だった。

数週間後にやっと、私は、
自分のすべてであった小論文を失って悲しいと、
喪失感に深い傷を負い、心が痛み、
これからの人生、諦めにも似た「むなしさ」に
支配されそうになっていることに気づいた。

たとえ話で、

ここにもし、失恋した人がいたとして、
あなたがその人のそばにいる人間だったとしたら、
どっちが悲しいだろう?

悲しみに自覚的であるのと、悲しみに無自覚であるのと。

悲しみに自覚的である人は、
大泣きして、叫んで、苦しみを表現する。
「十何年もつきあってきて、
 ずっとずっと大好きだったのに!
 信じてたのに! 他の女を好きになって
 私を捨てるなんて!ひどい!悲しい!
 生きていけない」と。

一方で、ショックを避けようとしているのか、
あまりにショックで一時的に自分と自分が乖離したためか、
自分で自分の悲しみに、気づけていない人がいるとする。

その人は、失恋したというのに、
周囲がひょうしぬけするほど平気な顔をしていて、

でも、急に髪型を変えたり、
気づけば高い服や靴やバッグを買ったり、
やれグルメなレストランに行こうとか、
プチ海外旅行に行こうとか、
あれこれ楽しい企画を立てては誘ってくる。
そしてこういう。

「どうしてかしら、私意外に平気なの。
 ぜんぜん悲しくないし、これからは、
 もっともっと楽しくいきなきゃ。」

しかし、まわりからはちっとも楽しそうには見えない。
楽しくしようとすればするほど、
彼女にも、まわりにも「むなしさ」が広がってしまう。

こんなとき、悲しいことを悲しいと、
自覚し、表現したほうが、本人もまわりも、まだ救われる。

まわりのためと、悲しみをこらえているなら、まだいい。

本人と悲しみが乖離してしまって、
本人ですら、自分の傷に気づいていない場合、
「楽しく」は空疎に響き、まわりから見て、痛々しい。

私が、わけもわからず直感的に、「楽しく生きる」に
凍りついてしまったのは、
この喩えに近い痛々しさを感じたからではないだろうか。

私も、人事異動の通達のあと、
諦めかけたが、やっぱり諦めきれず、
ほぼ賭けに近い行動を起こし、
自ら希望を見出せなかったら、
「38歳で死んでいるのに80歳まで生きる」に
なりかけていた。
就活生の痛みは他人事ではない。
地続きだし、まさに、わがものだ。

26年表現教育に携わってきて、
思いがけず、生徒さんたちの、
深い悲しみの経験を聴くことがある。

失恋や、愛するご家族との死別、
私のように自分のすべてをかけていた仕事を失う痛み、
病気によって体の機能を失う痛み、

喪失感といったら、これ以上ないというような
生徒さんの悲しみにふれながらも、
そうした生徒さんの表現は、力強く、清清しく、
聞く人に勇気を与えるものが多い。

一方で、「楽しく生きる」に象徴された
私が、その痛々しさに凍りついてしまった人たちは、
私が知る限り、大きな挫折や、大きな喪失には、
まだ人生で出くわしていない。

世の中の人が、いわゆる「ふつう」と呼ぶ家庭、
もっといえば、
「けっこう恵まれていると思われる」境遇で育ち、
とりたてて事件とか、大きな不幸に遭遇することはなく、
それこそ「なんとなく」で生きてこられた人たちだ。

先にあげたような、死別や大きな喪失にあっていないのに、
なぜ、彼女たちは諦めているのだろう?

喪失にも二通りあるように思う。

失恋とか、死別とか、
自分のアイデンティティとも言える職を失うとか。

ある日、突然、一瞬にして、
自分の一部をもぎとられるようにして、
愛する何かを失うケース。

私も、人から見たらたいしたことはないかもしれないが、
13年自分のすべてをかけた小論文の仕事を失ったときは、
自分の一部をもぎとられ、大きな穴がぽっかりあいたような
喪失感にさいなまれた。

これらは、原因も時期もはっきりしていて、
自覚的に、一瞬で何かを失うケースだ。

しかし、「失う」には、たとえると
日々、自分ではまったく気づかぬうちに、
一滴ずつ血を抜かれるようにして、

「ある日気がついてみたら、なんということだ、
 自分に穴があいているじゃないか?
 いつのまに、どうやって、なぜ、
 自分は何を失ったんだろう?」

という、無自覚なまま一滴ずつ失う
「喪失」もあるんじゃないかと思うのだ。

たとえば、親に反抗したり、
留学とか浪人とか、親の反対を押し切ってやったり、
少年時代に、強く自己主張して、周囲とぶつかったり、
自己を表現して、自分の小ささや、自分の限界、
自分の思わぬ潜在力、思わぬ人の親切に気づいた生徒は、
大学生になって、むしろ、親に感謝したり、
おとなや社会にたいして、恩返ししたいという気持ちが
芽生えている。
そう「働きたい」「早く社会に貢献したい」と言っている。
特に今期の大学の授業ではそう感じた。

しかし、「なんとなく」で来てしまった人。

なんとなく自己表現せず、
なんとなく遠慮して、あるいは、なんとなく怖くて
一歩ひいてしまった。
なんとなく大人の言うことにしたがって、
なんとなくみんなについていって、
自己表現をひかえ、一歩引き、二歩引き、
自分が引いていることにさえ無自覚にきてしまった人が、
ある日気づいたら、日々、失っていた
ということもあるんじゃないだろうか。

以前ここで読者が言った「満たすものと、損なうもの」
で言えば、一見似たように日々を過ごしているようで、
実は、日々、自分を満たしていくような行動を
していく人と、
自分でも、それが自分を損なうとは気づかず、
むしろ、失いたくない、多くを得ようと思いながら、
日々、実は「自分を損なう」行動をしている人と。

就活生だけではない、まさに、我がことだ。

日々、少しずつ失うような、
それに気づかないような生き方は、
私もしたくない。

日々、自分を満たしていく生き方とは
どうすることか?

読者このおたよりを2通紹介して、きょうは終わりたい。


<希望はどう生み出すか>

今回の「働きたくない」というあなたへ
本当にいろんなことを考えさせられました。

先週の更新後もいろいろと考えていたのですが、
土曜日の糸井さんの「今日のダーリン」の言葉が
なんか、このテーマとぴったりくる感じがしました。

「じぶんが動けば、なにかが変えられる」
 と思っている人は、魅力的に感じれるのかもしれない。
 というか、
 「じぶんには、なにも変えられない」って思ってると、
 ま、ほんとに見事なまでに、死に体に見えるってことか。
 変えるだの、変えないだのって、別にね、
 大統領が「チェーンジ!」っていうみたいな、
 大きいことを言ってるわけじゃないんです。
 そうじゃなくてさ、
 あきらめてないっていうかな、
 「昨日とちがう未来」がありうるって思っている感じ。
 それがあるかないか、で、まったく逆に見えるんですよ。

 いまって、日本中が、なんとなく、
 「昨日とちがう未来」なんかないんじゃないか、
 いやもっと悪くなるんじゃないか、というムードです。
 そういうなかで、ほんのちょっとだけど
 「じぶんが動けば、なにかが変えられる」
 と思っている人の周囲は、やっぱり変わっていくんで。
 そこらへんでちっちゃな自信をつけると、
 またまた「じぶんが動けば、なにかが変えられる」とね。
 そんな循環が、人をいきいきさせるのかなと、
 ぼーっと考えていたらのぼせた入浴中のオレでした。

 しっかし、それにしても、
 誰かがあたえてくれる希望なんて、
 ほんとにひとつも、かけらほどもないよね、いま。
 あるのは気休めか、やせがまんばかり。
 こうなったら、希望はじぶんで生みだすしかないよ。

今までの流れの中ではずっと学生の考えに
焦点を当てていたんですけど、この糸井さんの言葉で、
もしかすると今の若い人たちは、本当に魅力的で
生き生きと働いている大人の姿を見ていないのかも
しれないなぁって思いました。

だから、働くということへのイメージが具体的に
持てないのではないかと。

身近な大人の姿を見て、
あんな思いをしてまで働きたくない、
あんな社会人にはなりたくない、
大人は何のために働いているのか‥‥
そんな風に思っているのかもしれないなと。

もちろん私の周りにも
魅力的に働く人ばかりがいたわけではなく、
「こんな大人になりたくない」と思ったことあります。

でも、それでも何のために働くのか、
とか働くことへの魅力とか
そういうものを感じさせる大人の存在が
なかったわけではありません。

多くの人が何に希望を見出したらいいのかわからず、
うろたえているのかもしれませんね。

それは学生だけではなく、
社会全体がそんな雰囲気なんだと思います。

そう考えると、「楽しく生きたい」としか
自分の人生を表現できない
学生って本当にかわいそうだなって思います。

改めて、今回のコラムで自分が一人の大人として
社会人として、どういう姿勢で仕事に取り組むか、
もっと大きく言えば、
自分が自分の人生にどんな姿勢で臨んでいくか
問われているのだと感じました。

実はいま職場に実習生が来ています。
その実習生とも、「働く」ということについて
話をしました。

実習を通して、これから社会に出ていくということを
リアルに感じているみたいです。

自分の将来に向けて、何か自分らしい一歩を踏み出して
いけるような実習になったら嬉しいなと思います。

そして、この実習を通して働くことへの魅力も感じとって
もらえたら嬉しいです。
(A)


<希望はどこにあるか>

働きたくない
楽しく生きたい

働くにしても、働かないにしても、
今は、情報が溢れていますよね。
特にインターネットの世界は広く、
どこまでもどこまでもつながっているようで、きりがない。
「ここまで」って決めないと情報ってやつは際限がない。
便利なようで不便。

最近、こう考えるんです。
インターネットの世界は、
すべて過去のものなんじゃないかって。
だって、誰かが編集し、整理したものでしかないじゃん。
そこには、未来のものはなにひとつないんじゃないの。

少しおおげさですが、
未来をつくるのは自分の中だけにあるんじゃないかな。
って。
(47歳、男、会社員)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
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2010-03-17-WED
YAMADA
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