YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson480
   「働きたくない」というあなたへ 4



「働きたくないあなたへ」
といっても、これは、

全国の働きたくない人を働かせようというシリーズ
ではありません。あくまでもここでは、

1.学生など「未社会人」で、
2.働きたくないと初めからどこか「捨てた」構えで、
3.いま「就職活動」をしている(結局、就職はする)

ごく一部の若者のことをさしています。
専業主婦など、自分の意志で「働かない選択」をした人を
とやかく言うものでは、まったくありませんし、
(実際、私の母も専業主婦ですが尊敬しています。)

ましてや、すでに社会に出ているおとなの、
私生活優先などの働き方を認めないというもの
でも、ぜんぜんありません。
(私自身、働かない・働けない経験があります。)

また、圧倒的多数の若者は前向きに就活しています。
私が講義している大学でも、能力・意欲ともに高く、
こちらが恥ずかしくなるくらい立派な学生も多くいます。

「これからの若者のために何ができるか?」

途中から読まれるかたのために、
そこを念頭におくとはいりやすいことを
ガイドしておきます。

さて、出発点に戻って、
そもそもこのシリーズを書くきっかけとなった
教育現場に話を戻そう。

ある日、いつものように大学生の就活サポートを
していると、強烈な違和感を持って、
学生の、この言葉が耳に入ってきた。

「楽しく生きる」

一瞬、ほかのことが吹っ飛ぶほど、
わたしはその言葉に凍りついた。

なぜだかわからない。現場の肌感覚? 直観?
でも、26年も教育に携わってきて、
それは、明らかに初めて味わう、
ニュータイプの衝撃だった。

会場にはたくさんの就活生がいるのに、
決して大きな声では話していない、その学生の
「楽しく生きる」
という言う言葉だけが、
なぜか切り取ったように耳に入ってくる。
あまりにも浮いた響きだった。

こわごわその学生を見ると、
とても清らかで、澄んだ、素直な容姿をしている。
きちんとした大学に通い、好感を持てる学生だ。

まったく悪びれた様子なく、
つくっているのでもなく、
ほんとうに真面目に、素直に、こう言った。

「人生の目標は、楽しく生きること。
 だから、働きたくない。
 でも、お金だけはほしい。お金は本当にほしい。
 だから、玉の輿にのりたい。
 就活は、お金持ちの結婚相手を探すために
 必要だからそれなりにやる。」

まるで弾丸に撃たれるように
これらの言葉がずんずん響いて胸が苦しくなった。
あきらかに私は動揺していた。

その後、数は多くは無いものの、
同様のことを言う学生に、一人、また一人と出会い、

「いかん、こりゃ、ちがう!」

何かしなければと言う強い衝動にかられた。
「いかん」というのは、
学生が悪いわけでも、能力が無いわけではない。
むしろ、高い潜在力を感じる学生たちだ。

「いかん」というのは、こっち側の、私たち大人が、
アナウンスしそびれているんじゃないか、という感じだ。

「お金」に強い欲求をもち、
「楽しく生きる」を身上にし、
そのモノサシで同列に就職を語る。
「結婚」とか「彼氏」とかの話を
就職の話に同列に、混在させる。

「自己表現」と「自立」と「幸せになること」。

イチローのように、この3つを天職でまっとうする人は、
ごく一部だと、以前、私はコラムに書いた。

金は要るけど働きたくないという人は、
「自己表現」と「幸せ」への強い欲求をもち、その一方、

「自立」への欲求は薄いどころか、まだ育っていない。

あまり良い喩えではないが、
私が感じた違和感を伝えるのに、
他に方法が浮かばなかったので、
「たとえ話」にしてみた。

この「たとえ話」には、誇張も歪曲もあり、
実際の就職問題とは異なることも多くある。
不快になると思うが、読んでほしい。

ある家族で、お母さんが病気になり、
介護が必要になった。

父親のいない4人きようだいで、
長男は、きょうだいを集めて、こう言った。

「きょうから、ぼくらで協力して、
 お母さんの介護をしないといけない。
 みんな、まず、やりたいことを言ってほしい」

妹は、
「私は料理が好きだから、
 お母さんが食べやすく、健康に良い食事を
 つくってあげたい」

弟は、
「僕は、体育会系で鍛えた足腰がある。
 お母さんを抱いてトイレに連れて行ったり、
 お風呂に入れたりは苦じゃないから、まかして」

長男は、
「僕は、建築が得意だから、
 トイレや風呂のバリアフリーを設計して
 改築をしたい」

ところが姉は、
「適当に仕事をふってよ、それをやるから」
という。

弟は、
「希望を出したほうがいいよ。姉さん、
 たとえ希望どうりにいかなかったとしても、
 介護はつらいから、はじめにちゃんと考えて
 臨んだほうが、納得感がある」

姉は、
「みんな介護に情熱があっていいわね。
 私は、みんなのように介護に意欲を持てないの。
 それよりも、いまは人生のパートナーを見つけたり、
 自分のための時間を大切にしたいの」

妹は、
「私だって、いま彼氏と大変な時期だよ。
 でも介護のことはちゃんと考えたほうがいいよ、
 何が好きとか、得意かとか。
 そのほうがお母さんだって喜ぶし」

姉は、
「あなたは好きな料理があるからいいのよ。
 介護が楽しいと思う人は、どんどんやればいい。
 偉いと思う。でも私は、楽しいと思えない人なの。
 何が楽しいかって、人それぞれの問題でしょ」

長男は、
「お母さんには、ここまで育ててもらった恩返し
 というのもあるんだし」

姉は、
「自分の人生、楽しく生きて何が悪いの。
 やらないって言ってるわけじゃないのよ、
 適当に仕事をふってって言ってんの。
 やるんだからいいでしょ。
 どうぜ玉の輿にのって家を出るまでの間だし。」

長男・妹・弟
「……。」


以上のたとえ話で、もちろん、
「親の介護となったら話は別」だろうし、
そうとなったらやるだろうし、
ということは十分わかるのだ。
マズイ喩えで、何を伝えたかったかというと、

「自分の人生をどう楽しく生きるか?」

という問題というよりも、
むしろ、良心に基づいての、前向きな「自己拘束」、

「自分が楽しく生きたいという欲求を、
 どれくらい譲れるか?」

の問題に近いんじゃないか。
正解はないのだけれど、
もちろん、本当の意味で「仕事=楽しい」人もいるので
いちがいに言えないのだけれど。

私が教えている大学で驚いたのは、
社会貢献への意識が高い学生が多いことだ。

遊びたい盛り、学業も忙しい合間を縫って、
アジアのスラムにボランティアにいったり、
アフリカの支援活動に携わったり。

好きでやっているというよりは、
もう少し大きいところで責任をとっている。

それって、個性とか人柄の差というよりも、
「訓練」や「環境」の差が大きい。

帰国子女が多いのだ。
海外で育っているうちに、
「社会貢献」、「奉仕」の精神、
もっと言えば「自己犠牲」の精神と責任や歓びを
身につける。

未社会人でも、
このような基礎トレーニングを受けていると、
いざ「仕事」を考えるときに、
自然ともう、他者や社会のことが射程距離にはいっている。

未社会人の間に、タダで食べさせてもらい
勉強させてもらったぶん、
ひろく社会に「還元」しようという意識が
教えられなくとも、もう、自然と芽生えている。

大学まで自分のためだけに進路を選んできた人も、
ここからは少し違う。「社会性」が加わる。

仕事とはどういうものか、
事前のきちんとしたアナウンスが受けられず、
「社会貢献」とか、頭ではわかっていても
実体験がなく、実感がわかず、
ウチの手伝いさえ免除されてきた人が、

人生ではじめて、
「やりたいこと」とか、「将来の目標」とか聞かれ、
いままで閉ざされていた、自己表現や自己実現への
欲求のフタをこじ開けられ、
はじめて自分の人生を正面きって、
まともに考えるようになったときに、
「幸せになりたい」、「楽しく生きたい」、
そのために「お金がほしい」「結婚したい」と言うのは、
無理も無いことかと思う。
「そりゃあ、そうなるよなあ」というか、
だからこそ、悔しい、というか。

「自己表現」と「自立」と「幸せになること」、

この3つのフタを、就活という必要に迫られ
一気にこじ開け、混乱させるのでなく、
もっと早くから、分けて、考える機会を与えてあげたい。

最後に、すでに社会に出た先輩たちの声をあげて
きょうはおわりたい。


勤めだして四年目になります。
かつて自分自身も「働きたくない」という学生でした。

自分のやりたいことってなんだろうと堂々巡り
不安を抱え、まるで動けない時期、
教授に言われたのが、

「好きなことは続けていいけど、期間を決めて、
 何かひとつのことをしたほうがいい。」

「自分のやりたいことじゃなくて、
 自分を必要とする人のために動くべきだし、
 その時期だ。」

当時はぴんとこなかったのですが、
今になって、
少しづつ意味が分かってきたように感じます。

好きなことをしていた頃は楽しかったですが、
そこでは自分に都合のよい人しか出会えていませんでした。
仕事だからこそ、自分の都合を越えた出会いを
与えてくれるし、
枠を広げてくれているように思います。

実際に自分を広げてくれるものは、
自分の思いや願望とは無関係の、
外の世界から与えてもらえる。
ただそれは、自分のやりたいことなどに固執していると、
なかなか出会えませんし、
出会えてないことにすら気づきません。
(たまふろ)


大学卒業後2年間、
引きこもり・ニート・無職・家事手伝い、
と称されるような生活をしていました。

「自己実現」や「夢」を喧伝する
「就活」が気持ち悪く、不安ばかりかきたてられ、
自己分析をしようとするのに自己嫌悪にしかならず、

そのうち負のスパイラルにはまっていました。

そんな私も、今年の1月で、
社会人2年目になります。

確かに、仕事には「束縛」されています。
つらいことも、苦しいことも、
理不尽なことも、嫌なことも、
いっぱい、いっぱい、いっぱいあります。

でも、あの、何にも「束縛」されていなかった
2年間にくらべたら、どうってことないな、と思うんです。
つらいけど、つらさの種類が違いますから。

「行く場所」がない、「やるべきこと」もない、
「社会とのつながり」がまるでない。

そんな状態は、自由でもなんでもなかったです。

少なくとも、社会から承認され、
自分で自分を承認できることが、
「自由」の前提にあるような気がします。

今でも私は、「自己実現」も「夢」も
「やりたいこと」も「好きなこと」も、
よくわかりません。

けれど、自分が「出来ること」にも
「出来そうにないこと」にも、
挑戦させてくれる今の職場は、
つらくても刺激的で、総合的には面白いです。

私は、どんなにつらくても、
体力と精神力が続く限り、
「働くこと」をやめるつもりはありません。

「働きたくない」と言う、
少し年下のひとたちに私が言えるのは、

「でも、働かないのって、
 そんなに楽しいことじゃなかったよ?」

ということです。
(社会人2年目)


現在26歳の男です。
僕は今、無性に「はたらきたい」と思っています。

会社を辞めて半年。

次の仕事は満足できるものにしたい、
と考えるとそう簡単には決まりません。
貯金も底を尽き、アルバイトをしながら長期戦のつもりで
仕事探しを続けよう、と考え始めたところです。

大学在学中に、「みんなやっているから」就職活動をして、
「文系の学生には一般的だから」営業の仕事を選び、
「上場企業で安定していそうだから」入った会社では、
僕は「働くこと」の意味を見出すことができませんでした。

今思えば僕は、
まるで受験勉強のような
「就職活動」という錯覚をしていました。

高校受験、大学受験、そして就職活動と、
世間的により良いとされているハコに
自分を所属させるための
作業にばかり没頭し、

肝心な「なんのために働くのか」「働くとはどういう事か」
という事に対しては、
思考停止を起こしていたのだと思います。
(26歳 就活中)


就活中の友達がこぼした本音の中に
印象的なコメントがありました。
「頭のいい子は小学校から何の仕事に就きたいか考え、
 キチンと会社に入ってる。
 なぜにそれを考えられなかったのか、
 やはり今でもわかりません」
(みるくねこ)


32歳男性です。
私は医学部の学生をしています。

医師不足の時代なので医学生はそこまで熱心に
就職活動をしないでも、それなりの病院に就職できます。
自己実現を煽るような面接試験も、ありません。
どこ大学で、クラブは何をやっていたかとか、
じゃあ誰の後輩だとか、
そのぐらいのことしか聞かれません。

医学部に入った時点で、
自己について根本的に問い直すことは免除されており
残るは、せいぜい何科の医師になるか、
どの大学で研究するかの選択ぐらいです。

それと比較して企業面接は大変だと思います。
(自分も経験しましたので)

まず学生は、あらゆる選択肢を考えなければならないです。
業界選びからしなければならない。
仕事を選ぶには、選ぶ自分ができてなければならないので、
それを急ごしらえするのが自己分析です。

このように若者をハイテンションに追い込み
競争させるのは、
企業が若者を選びやすくなるからであり
不景気になればなるほど、
就活学生は精神的に危険な状況に追い込まれるでしょう。

とすると根本的な問題は、
学校教育の中で、選択の蓄積がないことだと思います。
18歳ぐらいまで偏差値競争をしながら
大学のランクと理系文系の選択ぐらいしかしていません。

何をしたいか、何が好きか、そんな事を考えていたら、
偏差値競争に置いていかれるという
焦燥感の中で中高生時代を過ごさざるをえません。
自分の価値観についてじっくり考える時間は、
競争には邪魔なのですから。

その先送りの選択の末に大学に入り、
2年半ぐらいのんびり過ごしたらもう就職活動というのが
現在の若者の心の風景ではないでしょうか。

自分だけが大事にしたい価値とは何か、
それに基づいてどういう風に
社会と向き合っていけばいいか。

そういうことを考える機会が、子供から大人になるまでに、
学校、家庭、地域の中に無ければ、ならないと思います。
でなければ、偏差値競争の延長戦として、
勝ち組・負け組競争が
生涯に渡って続くだけではないでしょうか。
(32歳 医学生)


今、私は無職です。
20年近く勤めた会社をやめ、いま求職活動中です。
会社を辞める、そして今色々と履歴書を送りながら
たくさん考えました。

以前はSEをしていました。
20年たってやっとわかったことです。

自分は「ありがとう」のために働いていました。

24時間365日、携帯電話やPCを持ち、
夜中にたたき起こされても
休日に旅行先から呼び戻されても
「ありがとう」があれば働けました。

一生懸命働き、自分なりに真剣に
仕事に向き合ってきたつもりです。

おかげで、やめる前には「仕事に困ったらうちにおいで」
と言ってくださるお客さんがいてくださいました。
たくさんの方の「ありがとう、頑張ってね」の言葉を背に、
今、活動できています。

うまく言えないのですが、
全力でやって、自分とも周囲とも本気で向き合って
初めて何かを得られるのだと思います。

それなりの仕事をそれなりにする、それもいいでしょう。
でも、そこからは何も得られない。
1日のほとんどを持っていかれる仕事に、
それはもったいないような気がするのです。

今日も午後から面接です。いってきます
(”t”)


以前新聞で、美輪明宏さんが
仕事をしたがらない人に対して、
「お給料は我慢料です」というようなことを
おっしゃっていました。

本当に毎日楽しくて、充実感いっぱい、
この仕事をやっていて幸せでしょうがないという人が
いったい何人いると思っているのか、
そんなもの絵空事です、
というようなことだったかと思います。
(M)


仕事をすること、働くことは、=税金を納めること
だと考えます。

税金を納める というと何かお金の話で
汚れた感じ・イメージを持つ人もいるのでしょうが。
税金は結局は人のために、そして自分に帰って来るものだ
と思うからです。

「税務署の人間」でも「憲法論者」でもありませんが、
基本です。

まずは、働いてから考えてもよい。に賛成です。
しかし、就職できない人が(大学生や若い人に限らず)
ほんとにたくさんいます。
私も40代で3回転職していますから、
ほんとに就職する大変さがわかります。

でも、いろんな(ひとの)考えがあって、悩みがあって、
答えがあっても、結局は自分で考えないと。ね。
(47歳、男、会社員)


たびたび「自己実現」という言葉が出てきますね。

この「自己実現」という言葉の中に、
この言葉を使う人の背景に
「自己中心性」が見えることがあり
とても気になります。

自己実現とは、単に自分のやりたいことをやる、
自分の好きなことを実現する・・・ということでしょうか。

自己実現の先に人生を自分の思い通りにだけしていたい、
自分の思い通りにならないのならあきらめる、
それなりでよい、という自己中心的な思いが
隠れているように感じて
そのことに引っかかりを覚えました。

仕事にしても、たとえば結婚したいという願望にしても
同じことが背景にあるような気がします。

自分の願いだけをかなえたい。
私が幸せになるために、仕事や結婚がある。
自分の幸せのためだけに何かを手に入れたい。

そもそも、仕事って自分のためだけにするものではないと
私は考えます。

クライアントのために、そして組織のために社会のために
自分を犠牲にする(という表現は大袈裟かもしれませんが)
ということなしに、本当の仕事はあり得ないと思います。

だからと言って、組織側から一方的な過重労働や、
ノルマを受け入れればよいというものではなく。

仕事は人に喜んでもらうために
するものではないでしょうか。

また、結婚したら幸せになれると考えている人のことも
私はどうも理解ができません。

自分が幸せにしてもらうことしか考えていないとしたら
それはとても自分勝手なことだと思います。

家族って、相手のために自分を犠牲にすることが
できないと本当の意味で支えあうことは
できないと思います。

ズーニーさんが時々お母様のお話を出されますが、
家族のために自分を犠牲にして、
家族を支えようとすることは
とても素晴らしい仕事だと私は思います。

自己実現もそうですが、
「自由」と「自分勝手」という言葉も
多くのところではき違えているのではないかと
感じることがあります。

自由は本来責任とセットで得られるものです。
自分の自由意思で選択し、行ったことの結果は自分で責任を
持たなければならないはずですよね。

「あきらめ感」の中に、
どうせ自分の思い通りにはならないし・・・みたいなものを
感じてしまいました。
その背景に「自分のことしか考えていないんじゃない?」
っていうことが私には見えました。

いま多くの人が「自分さえよければいい」という
無意識の意識の中に生きているような気がしました。

生きていくって楽なことばかりではないし、
どんなに好きな仕事をやったとしても、
自分の夢を実現するために
取り組んでいる過程にあったとしても、
楽しいことばかりがあるわけではなく、
自分の思う通りに進んでいくわけではありません。

それでも、自分の思い通りにならない現実を
まるごと引き受けても、私はこのことのために
自分の能力と時間をささげたいと思うこと、
その先に自己実現ってあるのではないかなって思うんです。

自分だけが幸せになればいいという選択ではなく、
自分以外の誰かを幸せにするような選択ができる
ようになってほしいと思います。

そうはいっても、人って自己中心的な存在です。
私自身の中にも、当然自己中心性はあります。

そのことを無視して人の為に・・・
というのは単なる偽善だと思います。

自分の中にある自分がかわいい思い、
自分が満たされたい、自分が必要とされたい、
自分が愛されたい、自分に関心を持ってほしい
そういう思いをわかった上で、
自分が人のためにできることは
何かを考えていけたらいいなと思います。
(A)


体も心も、人はいつも程よい熱が必要です。
体は熱を作り出して動き、
気持ちは熱を伝え合って動きます。

そしてその熱は、与えあって増幅するものだと
気付かずにはいられません。

社会から温めてもらうには
自分が社会を温めようという気持ちが必要なのだと
働く中で気付きました。

人と人も、企業と人も、社会も人も、
温めあうことで互いに活性化する

温めてもらうことだけ求めれば、
その人は熱を奪う存在となってしまいます。

発熱することを止めた体を温めるのは
まるで死体を温めるようなもので、

そうそう温まるものではないのは確か。
温めてもらうには自ら発熱し続けるしかなく、
発熱し続けるためには歩き続けしかない。

疲れたら休んでいいから、とにかく歩き続けるしかない。
ゆっくりでもいいから、
自分のペースで歩き続ければ必ず着く
いつか、どこかに着いたなら、
次のステップを求めて歩き始める
どこにいても、それが歩き続けた結果ならば
その人は冷めない
たとえ玉の輿に乗れたとしても、冷めないためには結局、
歩き続けるしかないと、思うのです。

「就活まっただなか大学三年生さん」のメールから、
歩き始めた熱が伝わってきました。

その熱を必要とするところが必ずあるし、
それがきっと一つ目の居場所になる
(Sarah)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2010-02-24-WED
YAMADA
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