YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson479
   「働きたくない」というあなたへ 3



「働きたくない」という若者を見て、
私が、ざわざわ、もやもや、
なにか言わなければいけない気持ちに襲われるのは、

きっと、その若者が悪いわけでも、
能力がないわけでもなくて、

そこに、「仕事」とは何かということについて、
「混線」があるからだと思う。

「混線」しているのは、
私たち大人が、働くことについて
必要なアナウンスをしていないからだ。

例えば、先週の「行く場所」と「帰る場所」の話。

これだけでも、
仕事に対する「混線」を解きほぐすのに、
ずいぶん役に立ったように思う。

「玉の輿に乗るから、仕事に乗り気になれない」
というのは、「行く場所」の話なのに、
「帰る場所」の話をしている。

「行く場所」も「帰る場所」も、人には両方要る。

心臓の右心室と左心室のようなものだ。
どっちかがあるから、
どっちは要らないというものではない。
「行く場所」は「帰る場所」の代用ができないし、
「帰る場所」は「行く場所」の代わりはできない。

就活生のうち一部の人は、無自覚なまま。
「行く場所」の話に「帰る場所」の話を混線させており、
それが、話をわかりにくくさせる。

きょうは、「混線」について、さらに考えてみたい。


<それなりでは、いけませんか?>

現在社会人4年目25才女子です。
「働きたくない」という意見に、非常に共感を覚えます。
私も自分の優先順位の中で、
「仕事」の順位はそれほど高くなく、
特に熱意を持ちたいとも思いません。

仕事をして収入を得たり、
そこで社会と関わらないと生きにくい事ぐらい、
みんな分かってると思います。
けれど、誰もが希望の職につけるわけでもないし、
理不尽な事ばかりの社会です。
頑張ったからといって認められるわけでもないし、
やりがいとか楽しさが見つからない場合もあるでしょう。
正直、社会に対する
「あきらめ感」みたいなものもあります。
そんな中でも、嫌だけど、
理想と現実のバランスを図りながら、
生きていくための「手段」として仕事をする人も、
私含め多いと思います。

仕事に対する「熱意」とか「夢」とか「志」って、
そんなに必要でしょうか。
もちろん給料をもらう以上、
プロとして最低限の仕事をして、
社会と上手く関わらなければなりません。
そこから学ぶ事も非常に多いです。
けれど、それは「それなり」でいいと私は思っています。
それよりも、自分の好きな事とか、
大切な人と過ごす時間に重点をおく事を重要視しています。

「仕事」を、熱意を持って
生きがいだと捉えられる人も素敵だと思います。
でも、残念ながらそうは思えない人もいます。
結局は、その人にとって
人生を楽しく豊かにするものが何なのか、
という価値基準の問題になるのでしょうが。

‥‥以上のような話を上司とすると、
「今の若い子達は、
 プライベートが何より大事だもんねぇ」
と、よく言われます。これって、
世代的な価値観の違いなんでしょうか‥‥??
(mako)


このメール、共感するところが多いのだ、

社会に出たら「理不尽だらけ」、
ほんとうにその通りだ。

「がんばったからと言って認められるわけではない」
そう、これはもう、身をもってわかる。

「誰もが希望の職につけるわけでもない」
そう、私の知る限り、希望の職に就ける人のほうが少ない。

「生きていくための手段として仕事をする人も多い」
これも、私も、まったく意に沿わぬ、適正もない仕事を
生きていくため、だけに働いた期間が、
決して少なくはなくあり、それでよい、尊いと思う。

でも「だからそれなりでいい」という理由になるのかなあ?

「結局は、その人にとって人生を楽しく豊かにするものが
 何なのか、という価値基準の問題になるのでしょうが」


ここに「混線」みたいなものがあるんじゃないか、
そんな気がするのだ。

次の3人のおたよりをみてほしい。


<新卒早期退職をへて>

私は新卒として昨年の4月にある企業に就職し、
今年の1月に退職しました。

職務経験1年未満の「新卒早期退職」というものです。

私は就職活動をしていた頃は
ただ漠然と「働かなければいけない」という
強い焦りだけでした。運良く内定を頂いた時、
「嬉しい」という気持ちよりも
「迷い、不安」ばかりでした。
内定後も「本当にこれでいいのか」
という気持ちでいっぱいで
手当り次第に興味のあるものに飛びついては離れ、
いくら放浪を繰り返しても
「自分のやりたいこと」が分からないまま入社。

悩みの毎日は地獄のようでした。
体調も精神も崩してしまいました。
会社での配属も部署変更も個人の意志は関係しない、
改めて自分が会社の1つの小さな歯車でしかないこと、
そして“誰でも出来る仕事を多くの人が取り合っている”
実態を知りました。

「働ければ何でもいい」という甘い考えからの就職、
将来の目標もないままの就職、
ただお金の為の世間体を守る為だけの就職、
もっと自分の好きなものや将来を大切にするべきだった
と後悔しました。

「働くということ=社会とどう繋がるか」ということを
認識するのが遅過ぎました。

ただ会社を辞めてから改めて思うことがあります。
「働きながら目標を見つけることも、方向転換も、
 全然アリなんです」

私のいた部署は転職を重ねた中途採用の方々ばかりでした。
就職活動をしている時も働いている時も
「今就いた仕事が一生の仕事になるのでは‥‥」
という恐怖心がありました。
でも今ならそんな事は絶対ないと断言出来ます。

・正社員を9年勤めて結婚もして、
 やっとやりたいことが分かり異業種へ方向転換
・新卒3ヶ月で退職、異業種のアルバイトから
 契約社員へのぼりつめて
 どんどん大きな会社へステップアップを進める

そんな先輩方々がいました。
勤続することばかりが正しいわけではなく、
社会で働く大人は結構リスクを背負って
複雑な道を生きていると知りました。
学生なんかよりよっぽど『生きる力』が強い。

やりたい仕事、働きたい職種や会社が見えている人は
幸せです。
ただ、何となく働いてしまっても本人が意識を
高く求め続けていれば今の仕事の中にも違う世界でも
「やりたいこと」って見つかるのかもしれません。
このことにもっと早く気づいていたらと思います。
(さちこ)


<自己実現はできなくても>

私は現在社会人1年目です。
昨春大学院を卒業してIT系企業で働き始めました。

私は学部時代と院生時代の2回就活をしています。
就活中〜新人研修中の私は、
正に「働きたくない」と思っていました。

学部時代の就活では内定を頂いていたのですが、
私を取り巻く就活情報の中では「働くこと」が
あまりにも美化されすぎていて
自分がそんな大変なことできるんだろうかと思って
怖じ気づいてしまい
内定を辞退して大学院進学を選びました。

院生時代の就活では、もう肚を括った気分でした。
あんな大それたことできる訳がない、
本当に自分がやっていけるのだろうか、と
今振り返ってみると就活情報に接する中で
自分の中に生まれた
「働くこと」という
妄想に悩まされ続けた日々だったなと思います。

会社に入ってもうすぐ1年、
一日ずっと社屋の中で慣れない横文字と戦うのはしんどいし
無茶ぶりしてくる人がいたりして
おもしろいこと続きではないけれど
先輩に助けてもらったり教えてもらったり
同期に泣きついたり笑い合ったり
そういうささやかなことを幸せだと感じたり、
うれしいと感じたりしながら新米SEをやっています。

働き始めて思ったのは、働くことは
就活メディアや就活会社が謳うような
美化されたことではないということです。

必ずしも「働くこと=自己実現の手段」である必要は
まったくありません。

働くことが自己実現に結びつくのは就職だけに限らないし
まずとにかく企業で働き始めてみてから
自己実現を考えたって決して遅くはない。

そもそも実際フルタイムで働いた経験がないのに
フルタイムで働く中での自己実現を考えろというのが
無理難題だ、と思います。

ついでに、もっというと、
自分の内面と働くことが
過剰に関連づけられているように感じられてなりません。

就活本やら就活予備校やら就活イベントの
広告コピーを見ていると
新卒偏重主義の中にいて
自分の学歴や性別に悩んでいる学生を
さらに焦らせるようなことはもうやめてほしい、
と思います。
自分の適性や進路、やりたいことについて考えることは
もちろん大切なことです。

ですが、「働きたくない」という気持ちは、
「働くこと=自己実現でなければならない」
と学生を追い立てる
美化された就活(=働くこと)に対する
当然の反応だと思います。
(U)


<人は何で働くのか?>

多分小学校の頃でしょうか。人は何で働くのか?
という問いを先生がして、みんなが答えました。
「お金をもうけるため」「家族と暮らすため」
「自分の楽しみ」‥‥
まあ、みんな色々なことを言います。で最後に先生が、
「みんな正しいんだけれど、
 一つ忘れていることがあります」
「人の役に立つために働くのです」
と付け加えました。いや、びっくりしました。
そんな考えは浮かんできませんでした。
という訳で、仕事というと3つのことを思い出します。

 ・お金のため
 ・自分のため
 ・人のため

これが3拍子そろうケースは少ないかと思いますが
分けて考えると参考になる点も有るかと思います。
(かぜ)



今期の慶應の授業で、
非常に説得力あるスピーチをした学生Aくんがいる。
私も感銘を受けたが、
聞いている多くの学生も、その意見に打たれた。

それは「束縛されていることを認める」という
意外な意見だ。

みなさんはどうだろうか?
仕事をやるにしても、
サークルの活動をするにしても、
なにか人の手助けをするにしても、

「それは拘束されて、
 イヤイヤやらされているのではない、
 自分が好きでやっている」

と想いたいのではないだろうか。
どんなに本意ではないことをやるにしても、
人は、「自分が拘束されてやっている」とは
思いたくないものだ。

自由な意志でやっていると思うから、
ツライことでも苦じゃなくなる。
と、私もそう思っていた。

ところがそうばかりではない。
いやむしろ、「束縛」という関係性を認めないことが、
逆に人を追い詰めることだってある。

Aくんは、おばあさんの介護をしている。
大学と両立はほんとうに頭の下がることだ。

Aくんがどんなにおばあさんを愛し、また、つくし、
介護生活を辛抱強く続けてきているかは、
短いスピーチからも充分、説得力をもって伝わってきた。

それだけ忍耐力のあるAくんでも、
介護の生活は、想像を絶するものがある。

オムツをかえるにしても、
食事をしてもらうにしても、
常に常に、相手が機嫌よく、こちらの思うとおりに、
協力的に動いてくれるとは限らない。
予想を超えた事態もある。

どんなに大切な人でも、
どんなに心から好きな人でも、

「好き」と思えなくなる瞬間はある。

そういうときに、優しく、誠実な人ほど、
介護の対象を、愛せない自分、
好きで介護をやっていると言えない自分、を許せなくなる。

Aくんにも、介護の厳しい毎日の中で、
ふと、大切なおばあさんを
「好き」でいられない瞬間はあり、
そんなときは、どんなに孝行なAくんでも、
いま自分が心から望んで、
好きで介護をやっているのだと言い難くなる。
Aくんは、そのことに苦しみ追い詰められていった。

意外にも、そんなAくんを救ったのが
「束縛」という概念だった。

親の介護をする、とか、
親が乳飲み子の世話をする、という場合、
「好きでやっている」「当然のこととしてやっている」
と言いたいし、みんなもそう期待するし、
ほんとにそうなのだろう。

でも常に常にそうでなければならない
とすれば自分を追い詰める。

追い詰められたときAくんは、
「いま、自分は束縛されている」と認め、
そのことによって救われたそうだ。

つまり、「いま自分は介護に拘束されている」と。

どんなに大切な人と自分の関係にも、
「束縛」されたり、「束縛」したり、という部分はある。

愛さなければ、好きでなければ育児はしてはならない
と、それが理想だろうけれど、自分がとても大変なときに、
ものすごくひどいことをする子どもがいたら、
瞬間的に、親とはいえ、
好きとは思えない、世話をするのがいやになる
ということだって、あるのではないか。

そんなときに、「いま自分は束縛されている」
「育児に拘束されている」と認めることで、
世間はひどいとおもうかもしれないが、
現実的には、世話を放り出したり、
いいかげんにすることなく、
まっとうすることができる。

不思議にも「縛られている」と認めることが自分を生かし、
関係性を生かし、ひいては相手を生かす結果になる。

仕事は、基本、人を「束縛」するものだ。

先々週、自分が自由であるために仕事が必要だと
私は言った。
だが、仕事は人を自由にしない。
仕事の拘束に耐え、義務を背負い、
りっぱにまっとうして成果を出したものにだけ、
対価として自由は得られるのだ。

仕事は人を自由にはしない。

人生を楽しく豊かにする、とはベクトルが別物だと
私は思う。

仕事は自分に「制約」を課すし、「制限」をかけるし、
肉体的にも、時間的にも、知的にも、「拘束」する。

仕事は人を縛る。

自己実現と仕事が混線しがちな若者に、
伝えなければいけないことのひとつは、

基本、仕事が、
厳しく苦しい「束縛」からはじまるということではないか。

自戒をこめて、いま私はそう思う。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
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2010-02-17-WED
YAMADA
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