YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson477
   「働きたくない」というあなたへ



不況のせいか、
私たちが良いモデルを示せなかったせいか、

「働きたくない」

という学生に、たまに出会うことがある。
「やりたいことがみつからない」のではない、
なにか社会に拒否感があるわけでもない。

ただ、はなから仕事に意義を見出せない、
いや、まったく魅力を感じない、
という風だ。

もちろん、それは、ごく一部の若者だし、
多くは、仕事に意欲を持ち、
日本を変えたいという大志を抱いている人もいる。

生き方はその人の自由だし、
「働きたくない」というのも、その人の自由だ。

ただ、はなから仕事に意義を見出せない若者は、
男子にも、女子にもいる。

男子は、将来の目標は「結婚」だと言う。

具体的に結婚したい相手がいるわけではないし、
まだ社会にも出てないのだけれど、
「結婚」を目標にがんばりたい、
仕事は、はなからそえもの、というか、
幸せな家庭生活を支える必需品として、
それなりにがんばりたいという。

教育現場に出て9年になる。
将来の目標は「お嫁さん」という女子には
何度も出会ったが、
いままで、男子一生の目標を
「結婚」と言ってはばからない人に
出会ったことがなかった。
それがここ1年で初めて、たてつづけに複数出会った。

女子は、働きたくないが、お金がほしい、という。

玉の輿に乗って、旦那さんの稼いだ金で、
好きなことをして暮らしたいと言う。
すぐに金持ちを見つけられるわけではないから、
出会いを見つける手段として、就職はするという。

彼ら、彼女らは、
とても素直な良い学生だ。
大学で高い教育も受けている。
就職先がないわけでも、
才能がないわけでもない。
その気になったら、こちらから就職先を選べるだろう。

しかし、「その気」がない。

先日も、そんな学生に出会い、
潜在力や、可能性を感じる、その顔を見ていると、
なんだか、黙っておられない、何か言わなければ、
という想いがつきあげてきた。

だから、おせっかいと知りつつ、
「働きたくない」という人へ
私の考えを述べてみたい。

「働きたくない」というあなたへ、

仕事をもたないならそれでいい、
と思うのだが、

では、「自由」はどうやって手に入れるのだろう?

自分の次なる「居場所」は、
どう考えているのだろう?

就職は、
社会と自分を「へその緒」で結ぶ行為であり、
就活は、
自分の次なる「居場所」の、
設計図を引くような行為だと私は思う。

小学校・中・高・大学と、
私たちは、ただ箱を乗り換えるだけで、
自動的に「居場所」を与えられてきた。

入試は大変だけど、
入り口のところさえパスすれば、
あとは、受け身でいても、ずっと、
自分の椅子が与えられ続ける。
考えればへんな話だ。

だが、この先はそうはいかない。

卒業したら、次の居場所は、
自分でアクションをおこさなければ
得られない。

「居場所」がない

ということが、どんなに恐ろしいことか、
私自身、38歳になるまで気づかなかった。
一言で言って、

そこに「自由」はない。

私は、38歳で、16年勤めた会社を辞め、
フリーの編集者になろうとした。
しかし、どの出版社も企画部門は外に出したがらない。
フリーのライターは成立しても、
フリーの編集者が成立しないと辞めてからわかった。

「会社」を辞めた、

ただそれだけだったはずだ。
しかし、いったん会社の外に出たら、
「社会」からも干されてしまっていたことに、
初めて気づいて、動転した。
私は、個人として、
再びどうやって社会に入っていったらいいか
わからなかった。

自分と社会は、
ダイレクトに「へその緒」で
つながっていたのではなかった、
ということだ。

会社と社会は、へその緒でつながっていた。
私と会社は、へその緒でつながっていた。

だから、会社とのつながりが切れたら、
社会からも、自動的に切り離されてしまっていた。

思えば、小学校・中・高・大学と、
箱が、社会とつながっていた。

チューブを通して栄養が補給されるように、
「へその緒」を通して、
社会から、必要な情報も、信頼も、愛情も、
与えられ、守られてきた。

あまりに当たり前に「居場所」が
与えられる生活をしてきたので、
自分の手で「居場所」を切り開くことに、
あまりにも無頓着で生きてきてしまった。

だが、いったん「居場所」を失うと、
狭い箱に閉じ込められたように、とたんに
「不自由」きわまりない生活になった。

平日の昼間、一件のメールも、電話も、
一人の私を待つ人もいない。
働き盛りなのに、ふて寝をするより他ない。

日々、社会から忘れられ、人々から干され、
輪郭を失っていく自分。

もちろん、私には家族もいるし、友人もいる。

けれども、人は、家族や友人のように、
「好き」でつながっている人間関係だけでは
生きられないのだと悟った。
少なくとも自分はそうだ。

もっと大きな枠組みでの、人との「絆」が要る。

必要とされたり、役に立てたり、
貢献したり、協力しあったり‥‥、
単に好き嫌いを超えたところで、人と人は、つながりあい、
影響しあって、生きていける存在なのだと、
干されてみて、身にしみて思い知った。

あれから9年、フリーランスとして、コツコツと、
こんどは自分の手で「居場所」を築き、
自分と社会とが「へその緒」がつながってみて、思う、

「へその緒」からは、収入だけではない、
生きていくための養分がたくさん注がれているなあ、と。

もちろん、仕事を通して、社会に「貢献」し、
その対価である報酬、つまり「お金」を得る、というのが、
「へその緒」の主な行き来だけれど、

それだけではない。人はそれだけでは生きられない。

社会からの信頼であったり、
社会からの愛情であったり、
必要とされている感だったり、役立ち感だったり、
役に立つ情報だったり、知恵だったり、
自分の能力の発路だったり、
充実感だったり、歓びだったり、

収入を代表に、生きるために必要な栄養が
「へその緒」を通じて、激しく、
自分と社会を行き来している。

私はいま、生活に必要なお金を、
自分の手で社会に働きかけて得ることができるし、
何か役立って感謝をされることで、
社会からの愛のようなものも、
自分の手で社会に働きかけて得ることができる。

これは自由なことだ。

「玉の輿に乗って、旦那さんに稼いでもらって
好きなことをしたい」という人は、
それでいいのだけれど、その前に一度だけ、
考えてみてほしい。

どんな「へその緒」のつなぎ方が、
自分は気持ちがいいのか?

玉の輿の場合、自分と社会は、そのままでは
まだ直接、社会とつながっていない。

旦那さんと社会が「へその緒」でつながっている。
自分は旦那さんと「へその緒」でつながることで、
間接的に社会とつながっている。

この状態で、旦那さんを経由して
「お金」は問題なく入ってくるとして、
お金以外の栄養は、どうやって摂っていく?

社会貢献とか、社会からの信頼・愛情とかいうと、
言葉がたいそうだが、要は、好き嫌いを超えた部分で、
まわりの人に役立ったり、影響を与え合ったり、という、
まわりとの「絆」、ひいては自分の「居場所」は、
どんなふうにつくっていくだろうか?

もちろん、仕事をしなくても、ボランティアとか、
趣味とか、別の方法で、まわりとの「絆」、
自分の「居場所」を築いていくことはできると思う。
しかし、それはそれで、一歩、
単なる友達関係を超えた枠組みでやっていくとなったら、
仕事と同等か、それ以上に骨の折れる行為かもしれない。
「働きたくない」という自分にできるだろうか?

玉の輿に乗るのだから、それまでの暫定として、
家庭に目標を置くのだから、なんとなく
「就活」をしても、いいのだけれど、

なんとなく決めても、ちゃんと考えて選んでも、
「仕事」は、あなたと「社会」をつなぐ
「へその緒」になる。

どんな方向から、どんな質の栄養が摂れるか、
どんな人間とのネットワークができていくか、
ひいては、どんな自分の次なる「居場所」ができるか、は、
「仕事」によって大きく違ってくると私は思うのだ。

どこか「降りた」ような気持ちのままで、
就職を決めてしまっていいのだろうか?

どうせ選ぶなら、
新しい居場所の核になるところに、
あなたの「好き」を注ぎ込んだり、
「得意」を注ぎ込んだり、
そういえばこどものときから抱いていた
「夢」を注ぎ込んだり、
考えて、大切に選んだほうが、
そこを通じて、お金も、人も、役立つ情報も、知恵も、
信頼や、社会からの愛も入ってくるのだから、
単純に、気持ちがいいではないか、と私は思うのだ。

「働きたくない」ならそれでいい。

だけれど、自分が自立して生きていくために、
「金」と「愛」は要る。

愛は、恋愛、家族の愛、友愛に限らず、
社会からも愛されるというか、そういう広い意味で
人が生きていくのに最低限の意味で
ここでは用いている。

この「金」と「愛」を自分で創意工夫したり、汗を流して、
自分の手で得て生きていけるというのが、
私にとっての「自由」だ。

あなたにとっての「自由」をどう得ていくか?

最低限必要な、社会との絆をどう築くか?

卒業後の次なる居場所をどう築いていくか?

働きたくなくても、その設計図だけは、
楽しく引いてほしいと私は思う。

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2010-02-03-WED
YAMADA
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