YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson472
     「余分」のある言葉 4



きょうは、「余分のある言葉シリーズ」の最終回として、
現時点での、私の考えを述べてみたい。

もしも、私が、「余分のある言葉」を発し、
相手に「負担」になってしまっていたら、
また、それに気づいてしまったとしたら、どうするか?

誤解を恐れず、結論から言えば、

1.相手とのコミュニケーションの「面積」を減らす。
2.その分自分と交信し、自分が「やりたいこと」をやる。
3.2を「勇気」を出し、労を惜しまず、
  創意工夫をこらし、時間をかけてとことんやる。

具体的にどういうことか?
説明するまえに、
ヒントとなったおたよりを読んでほしい。


<甘えてるよなあ>

言葉についてる「余分」は、
それを受け取る相手に対する「お願い、望み、期待」
みたいなものなのかなあと思いました。
だから、問題なのは「余分」ではなくて、
それに対する言葉が「足らない」ことと思います。

「してもらいたいことがあるのに、
 それを言わないで、わかってもらおうとする」
「してもらいたいことがあるのに、
 そのこととは別のことを言いつつ、
 それをわかってもらおうとする」
「なにも言わないで、自分のお願いをわかって、
 それをかなえてもらいたがる」

こっちになにか求めがあるのに、はっきり言わないのは、
なんか卑怯だし甘えてるよなあと思う。
そんな人の相手するのはいやだなあと思う。
こっちから、「言いたいことがあるならいいなよ」とか
言うのも、バカらしいし。
そんな人の相手するのは、なんかつまらないし
面倒くさいなあと思う。

相手が大切な人ならば、
やはりきちんと言葉にして話し合います。
問題のもとが、言葉が足らないことなのだから、
言葉にするのが一番いいと思うのです。
(りえぞー)


<不安と我慢でぎりぎり、相手にしがみつく>

「負担」を感じた人は、
第一印象が良かっただけに意外でした。
その人は、真面目で優秀、なのに「不安」な人でした。
不安であることは、最初の頃分かりませんでした。

でも、すごく「我慢」している人は、
独特の緊迫感を醸し出しています。
緊迫は、相手にはもう一つ伝わりませんが、
本人は「ぎりぎりの気分」でいるようです。
そして、その結果として、
相手に「しがみつく」傾向があります。

わたしは、耐えられなくて気持ちのままに逃げました。

何というか、その人は最もらしい言葉で取り繕うのですが、
途中から全部自分自身だけに
ベクトルが向いているのでした。

わたしと話がしたいのではなく(共同作業)、
自分を理解してくれるような(一方的な)手段として
引き留めたいというのが分かった時、
きちんと喧嘩別れすることにしました。

余分は、自分の折り合いのつかない気持ちを
人に押しつけることだと思いました。
(メロン)


<一見わがままが、相手を自由にする>

誰かに対して余分のある言葉を使う人というのは、
その人と仲良くなりたいけど、
コミュニケーションを取る勇気もないし、
方法も知らないし、時間もかけたくないので、
自分の立場で考えた親切を、
相手に押し付けている状態なのではないかと思いました。

私はフリーランスで仕事をしており、
また、いろんな会合に出席することも好きだったため、
取引先の方々を始め、いろんな人の親切を受けてきました。

しかし、良くして頂いた方ほど
関係が長続きしませんでした。

そのことで私はずっと自己嫌悪に陥ってきました。
「あんなに親切にされても、
 その人に連絡を取る気にすらなれない私は、
 なんと薄情なのだろうか」と。
でも、ある時ふと思ったのは、

「私はそれらの親切を真に望んでなかった」

ということです。
おそらくその方々は、
普段私が何を好んでいるかも知りません。

また、母との関係に悩んでいる投稿も多かったようですが、
私も母の過剰な心配が重くて逃げている一人です。
一時期は、何を言っても私が生活に困っていると
受け取られ、精神的に参ってしまいました。
しかし、母の立場で考えてみれば、
若い頃は生活に追われ、幼い娘の話もろくに聞いてやれず、
定年になってやっと暇になったと思ったら、
娘は自営業を始め上京し、
電話をしても、娘はあまりしゃべらないので、
自分ばかり話してる。
これでは、娘の心が理解できなくても
仕方ないと思いました。

そういう私も、遠くに住んでいる大切な友人が
泥棒の被害にあった時、
心配で心配で、一体その人のために
何ができるだろうかと考えて、
結局、してあげられることが何もないことに気付き、
愕然としました。
ただ、もし愚痴でもこぼしたいと思ったのならば、
いつでも聞いてあげられると思ったし、
たわいないメールで、もし和んでくれるのであれば、
それでいいのかもしれないと思いました。

人に余分を与えないようになるためには、結局、
本当に好きなことをし、
自分の意志をきちんと表現できるようになった上で、
一緒にいて楽しめる人と付き合っていくことなのかな
と思いました。

波長があっているのであれば、その人の気持ちを知る事は
案外難しいことではないのかもと思い始めています。

一見わがままに見えることが、
実は周囲にも良い空気を与える結果になるのではないかと。

私が好きだった本の中に、
「天才は、対象物の気持ちを汲み取る」
という趣旨のことが書いてありました。

つまり、彫刻家は、どこを彫ればいいのかを木に聞き、
トップモデルは、着こなし方を洋服に聞くと。

自分を自由にわがままに表現しているかのように見える
天才が、実は相手(対象物)の気持ちを
汲み取っているのだとすれば、
私達も天才の技には遠く及ばなくても、
少しは相手の立場を考えてみることもできるのでは
ないでしょうか。
(S.R)



会話では、極力、
相手を「自由」にしてあげたい、と思う私だ。

言葉という生き物は、常に「自由」を好む。

自由を奪われると、人は窮屈になって、
言葉を操作・束縛しようとする人間から離れ、
逃げだしてしまう。

だから、相手に「ある答え」を強要したり、
暗黙のうちに「こう言え」と方向づけたり、
コミュニケーションを囲い込んで、
「それしか言えない」状況に追い込んだり、
してはいけない。

できるだけ相手が「何を言ってもいい」状態に、
せめて「いくつかの答えは選択する余地がある」くらいに、
できれば相手が「つぎ何を言うか予測がつかない」ほどに、

相手を自由に解放してあげたい。

けれど自分に自由がないと、
人を自由にするのは難しい。

私が、自分の言葉の「余分」を自覚し、
ガクゼンとしたのは、16年の会社生活の終わりごろ、

高校生の小論文指導から、しだいに、
高校生の自己発見、進路発見へと、
仕事が拡大し、高校生を

「やりたいことを、やろう!」

と煽っていた時期だ。
自分の「好きなこと」「やりたいこと」があるのに、
親や先生の薦めに従って、
可能性を閉ざしてしまう高校生を見ると、
いたたまれない気持ちになって、
「やりたいことがやれるように」支援した。

「私、可能性があるのに、生かそうとしない人を見ると、
 イライラするの!」
通勤の帰り道、私は後輩にそう言った。
すると、同僚がすかさず、

「じゃあ、山田さんはどうなんですか?
 自分は、やりたいことがやれてるんですか?」

虚を突かれて、二の句がつげなくなった自分がいた。

あまりに意外でギョッとした。
「あたりまえでしょ、小論文編集という天職に
 命を捧げてんだから、私ほどやりたい仕事をやれてる人も
 少ないと思うわ、私は恵まれているわ」
というつもりだった。

だけど言葉が出てこない。

自分の心の底は、自分ではわからぬもので、
当時の自分は、仕事で満たされていると思い込んで、
実は満たされてはいなかった。

たぶん、潜在的に「羽ばたきたい」という欲求が
あったものの、
会社を辞める勇気も、独立・起業する勇気も持ち合わせず、
そういう決断力も行動力もなく、
あるいは「たいぎだ」と思い、
あるいはどうしていいかわからず、
自分の経験やスキルも過小評価してしまっていた。

それで頭では、「現状維持でよい」と思いこみ、
その実、潜在意識では、
「次のやりたいことに羽ばたきたい」
と願い、その「満たされぬ想い」の投影で、高校生に、

「やりたいことをやろう! やりたいことをやろう!」

と煽っていた。
後輩は、そんな私の言葉の「余分」を感じ取り、
暗黙のうちに同調を強要されて、窮屈になったのだろう。

結果から振り返ってみると、
この「余分」は、会社を辞め、次なる仕事のフィールドへと
進み始める以外、解消の方法は決してなかった。

あのとき、「勇気」をふりしぼってよかった。
苦しかったけど、勇気をださなかったら、私は、いまごろ
「余分だらけ」になっていた。

「余分」は自分でも把握できない心の闇にある。

だから、相手から「負担」といわれても
本人、自覚していないのだから、コントロールしづらい。

それで、私が、シリーズ1に出てきた「奥さん」なら、
旦那さんのことを好きすぎて、
それがつりあっていればいいけれど、
旦那さんが「負担」を感じ、逃げ腰になっているとしたら、

ごはんをつくっても、何を言っても、
「見返りをくれ」「わかってくれ」
「私があなたを好きであるように、
あなたも私を好いてくれ」という無意識の信号を、
相手が嫌がってもなお、送ってしまうようなら、

まず、コミュニケーションの「面積」を減らす。
「面積」というのは、感覚的なたとえなのだけど、

相手を想う「想いの濃さ」×「時間」=「面積」

だとしたら、先週の読者の言葉を借りれば
「潔い前向きなあきらめ」をもって、
相手への濃すぎる思い入れを、
いったんポン!と手放してみる。
「どうにでもなれ」というか、
「どうにかなるさ」というか。

さもなくば、相手を想う時間・相手に関わる時間を
減らすか。

気持ちはなかなかコントロールしづらい、
「時間」なら、まだ意識してコントロールできる。
旦那さんにひっついている時間を、
4時間のとこ、3時間にするとか、2時間にするとか。

プレゼントに20時間かけてセーターを編んできたとすれば、
往復2時間でデパートに行って買ってきて
10分の1にするとか。

そうしてできた空き時間と労力を、「自分のため」に使う。

自分の芯の芯にある「本当にやりたいこと」は、
そんなに簡単に見つかるものではない。
だから、時間と体を使って、徐々に自分の声を聞く、

たとえば、これまで旦那さんが嫌いだから
作らなかったけど、本来自分が大好きで、
ずっと食べたかったけど我慢していた料理を、
自分のために手をかけてつくるとか、

たとえば、これまで旦那さん好みの洋服を着てきたが、
実は自分は、どんな洋服が好きだったかと、
思い出して、時間をかけて、
自分の納得するファッションを楽しんだり、

旦那さんにひっついていた時間を、
1時間はやめに切り上げて、
大好きな小説家の本を読むとか、

それらは序章にすぎず、でも序章が大事で、

そうして、自分の心の声に耳を傾け、
徐々に自分と交信する時間を増やし、
やがて、自分との通じが、しだいに、よくなっていくと、

やがて、ズドーン! と、自分の氷山の奥にある、
「旦那さんに心を奪われ」ていた間、我慢したり、
あとまわしにしてしまっていた
「自分がほんとうはやりたかったこと」
のありかが見えてくるかもしれない。

もし見えたら、ものすごく勇気がいるし、
すごく腰が重いかもしれないし、言い訳したくなるし、
労力もいるし、時間もかかるだろうけれど、
恐れずに、その道を選択して、全力投球で歩み続けてみる。

そのようにして、自分の芯が満たされれば、
満たされなくても、やりたい道を選んで
「いま、自分はその道に向かって努力している途上だ」
と自覚できれば、無意識の「不満」を、
無意識に人にばらまかなくてもいいのではないだろうか。

「自分の願いは、自分で行動して満たす」、

迷ったときは、
勇気の要るほうへ進んでいきたいと私は思う。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
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2009-12-16-WED
YAMADA
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