YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson461
     どうにもならないものを受け入れる力



地下鉄のホーム、
コラーゲンドリンクを飲もうとしていたとき、
ドスッと鈍い衝撃に押された。

ドリンクのビンは、手からはじき飛ばされ、
ホームに音を立てて落ちた。

その日、朝から、肌がカサカサ乾いていた。
おなかもすいて、のども渇いていた。
「やっとのことで飲めると思ったコラーゲンをー」
とばかり、ふりむくと、

「なにくわぬ顔の男」がいた。

私は、じっとだまって、目で訴えた。
あっ、すいませんと、言ってくれるものと思っていた。
ところが、

男はあやまるどころか、怪訝な顔で、私に一瞥をくれ、
逆ににらみ返し、椅子に座って、
座禅でも組むようなかっこうに手をあわせ、
目をつむって、シカトを決め込んだ。

人をつきとばしておいて、なんという態度だ!

瞬間、突き上げる感情に私はワナワナした。
男は大きめのバックを持っていた。
バッグがあたったため、体感がなく気づかなかったのか。

筋の通らないことが嫌いな性格の私、
よっぽど言ってやろうかと思ったが、
おんな対おとこ、ホームのいざこざは分が悪い。
必死で自分を抑えて、その場を去ろうとした。

すると、ビンからしずくがポタポタポタポタ、
見ると、ビンの底に亀裂が入り、
コラーゲンがなくなっていった。

私は、よし、と思い直し、
でも、殴られたりしたら怖いので、丁重に、

「あのー、さっき、あなたがあたったので、
 このビンがわれてしまったんですけど‥‥」と
ビンを差し出していった。

すると男は、犯罪人でも見るように私を見て、
いまわしそうに、いきなり声をあらげて、
「あたってないですよ!!!
 駅員でも、何でも、呼んだらいいじゃないですか!!
 だいいち、そんなものが、
 ここにあるのがおかしいでしょう!!!」
と、大声でまくしたてた。

腹の底から、憎悪と悔しさ、腹立たしさがこみあげてきた。

ビンを落としたのはそっちなのに、
ビンが割れたのも、そっちのせいなのに、
これはゼッタイ事実なのに、
事実を事実と認められない悔しさ。

それどころか、まともな人間扱いされない、
犯罪者のようにあしらわれてしまう悔しさ。

はらわたが煮えくりかえりながらも、頭は冷静に、

「先方はこちらをアタリヤかなにかを見るような目で、
 不信に思っている=自分にはメディア力がない。
 この状態では、何を言ってもダメだ」

「いくら、バッグがあたったことに
 気づかなかったとはいえ、
 相手の対応は過剰すぎる、
 もしかすると、タチが悪い相手かもしれない」

「話し合う労力にしても、時間にしても、
 なぐられるかもしれないというリスクを考えても、
 コラーゲンドリンク1本とでは、
 ぜんぜん、割に合わない」

と、状況を読んでいた。
でも、頭でいくらおさえこもうとしても、
腹から突き上げた黒い塊がわなわなとたぎっている。

「想い」は、もう、男につかみかかっているのに、
自分の頭と足で、自分の「想い」をはがいじめにし、
押さえつけ、
連れ去るようにして、私は、いやいや、その場を離れた。

電車に乗っても、
何度も何度も、引き返して、
男にどなりかかりたい衝動にかられた。

「わりにあわない」と、
私は、次々と、
ありったけの自分を静める言葉をくりだしては、
突き上げる怒りに電車の椅子から立ちそうになる
自分を押さえた。

ほんとうにあったことを、
「あった」と認められない悔しさ。

「あった」ことを「無い」とされてしまう悔しさ。

「あった」ことを「あった」というだけで、
異常人間のように扱われ、
踏みにじられた尊厳。

以前、このコラムで、
ご家族を医療ミスで失い、しかし、
自分を活かすために、ギリギリの決断で
訴訟を思いとどまったかた
のことを書いたが、
あらためて、その悔しさははかりしれない、
自分は、こんなに小さいことでも、
いつ感情のセーブがきかなくなるかというくらい
あらぶっているというのに、
どんなに悔しかったろう、と想った。

拉致問題や、戦争責任や、冤罪、
「あった」ことを「無い」と、
「無かった」ことを「あった」と、されてしまうのは、
どんなに悔しいことだろうか。

「事実」を認めてほしい。

怒りの焦点は、最後はその切なる1点に凝縮されていた。

しかし、人が笑うほど小さな、
たったコラーゲンドリンク1本分の事実さえ、
私には、認めさせる術(すべ)がない。

私は、私を押さえ込むのに、
あらんかぎりのリクツを思い浮かべ、ねじふせ、なだめ、
しかし、おさまったと思うと、
ふと男の顔が、まざまざと浮かび、
すると憎悪がこみあげて、
最初の怒りが、まんま体によみがえって‥‥、

待ち合わせた友人と会うころには、もう、クタクタだった。

「どうにもならないことを、
 受け入れるしかないときってあるんだよね。」

その日会った友人は、2人とも、
「どうにもならない重いもの」を背負っていた。

プライバシー保護のために、
改変を加えてお話しするが、
一人の友人は、訴訟で負けて、
月20万近いお金を長期にわたって払い続けている。
サラリーマンをしている友人にとって、
これは、相当にこたえる額だ。

それがまた、友人は悪くないから、やりきれない。

友人は、悪いことはしていないし、
むしろ友人の方が被害者だと、
話を聞けば、十人が十人、思うだろう。
先方にお金を要求することはあっても、
こっちが払うべき、筋のものではないと。

でも、私も知らなかったのだが、
立場の強い人間と弱い人間がいるとしたら、
友人のほうが、どうしても強い立場になってしまう。

そのため、いまの法律では、勝ち目がないのだそうだ。

最終的に、受け入れようにも受け入れられないことを、
友人が飲んだのは、弁護士の言ったこの言葉だった。

「時間をお金で買いましょう。」

つまり、このまま戦っても勝ち目はないどころか、
一生このことにかかずらわって抜け出せなくなることも
予想される。それならば、他に方法がないならば、
お金で済むのなら、お金を払って、
残りの人生を自由に生きる時間を買いましょう、と。

そのとき、条件を飲むのもどんなに悔しかったかと思うが、
そのあと、のちのち、あとあと、
毎月毎月、お金を払うときに、
友人は、自分にどう言い聞かせているんだろうか?
そのお金があれば買えるもの・できることが、
目の前を素通りするたびに、
自分をどのように納得させているのだろうか?

もう一人の友人も、親族の介護を引き受けた。
他に介護をする人がいなかったわけではない。
それでも、友人が選ばれ、友人はそれを引き受けた。
友人はまだ、結婚前の単身者だ。
たったひとりで、しかも、
フルタイムの仕事も相当忙しい友人は、
引き受けたその日から、2人分の生活費と介護を背負った。
なおるあてない病気で、
一生背負っていかなければいけないのでは、
と友人は言う。

「どうにもならないことを、
 受け入れるしかないときってあるんだよね。
 しかしそれで、思いがけず、
 自分の幅が広がっているときがある。」

と、高額のお金をずっと支払ってきた友人が言った。
訴訟を聞く前から、ひさびさに会った、その友人に、
なんだか器がおおきくなったような感じを受けていた。
以前は繊細でとんがった印象があった、
いまはおおらかなものを感じ、まわりに気遣いができ、
「包容力」のようなものが漂っている。

母のことを思った。

「受け入れられないものを受け入れる力」

その果てに来る、器のデカさ。
母にたいして、かなわないのは、そこだと。

母は戦中戦後を生き、田舎の主婦として母として、
時代や社会の理不尽をたくさん受け入れてきた。

その「受け入れ方」にしなやかな生きる力を感じるのだ。

受け入れられないものが迫ったときに、
多くの人は、戦ってそっちを変えようとするか。
あるいは、逃げようとするか。
いい、わるいでなく、革命も逃亡も、

「その現実に耐えることができない」という点で同じだ。

一方で、棒を飲むように、泣き寝入りしても、
あとあと、それで自分の心身をわるくしてしまったり、
人をうらんだり、まわりの人にあたったり、
まったく別のところで問題行動に出たり、

結局、それも、表面的に受け入れたようでいて、
「実は受け入れられていない」ということだ。

母を見ていると、このどちらでもない。
戦って相手を変えようともせず、逃げもせず、
だれかを恨んだり、自分を傷つけたりもしない。

なぜか、弱っていない。

どうやって母がそれを受け入れているのかはわからない。
たぶんそういうとき、
ささやかなおいしいものを食べるとか、
眠るとか、好きな野菜や花を植えるとか、歩くとか、
人に親切にするとか、あるいは、
その絶妙な組み合わせなのか、
考えようなのか。
実は、私がおもうのとはぜんぜん違う、
体と頭と心の使い方なのか。

とにかく、日々の訓練によって、
受け入れられないものを受け入れる術(すべ)というか、
知恵が、ワザ化され、身体化されている。

私には、そっち方面の力が足りない。
そっち方向の力を鍛えていかなければいけない。

地下鉄のホームでの事件は、私にそれを教えてくれた。
今では契機だと思っている。

人生には、どうしても受け入れられないことを
受け入れるしかないときがある。

そのとき、
「逃げるな! 戦うな! 弱るな!」
と言われてしまったら、

全部、出口をふさがれてしまったら、

あとはもう、「自分の器をひろげるしかない」。

たぶん、母も友人も、そういうぎりぎりのところまで
追い込まれたんだろう。
追い込まれて、結果的に器が広がったんだろう。

「戦わず・逃げず・弱らず
 どうにもならないことを受け入れるためには、
 あとはもう、自分の器を広げるしかない」

そういうとき、きっと器は広げられる!

人にはそういう力があると私は思う。

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2009-09-30-WED
YAMADA
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