YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson457
   どんな人とつきあいたいですか?


最近、教育現場で、
とっても妙な話を聞いた。

ともだち同士の「つりあい」の話だ。

たとえば、高校生なら
高校生の女の子同士で、

「あの子のともだちが、
 私じゃ、つりあいがとれないから、
 私は身をひく」

という感じで、自分でつりあいを気にして、
ともだちになれる人と、
高嶺の花とを、ランクわけし、
ふつりあいなら、興味ある相手でも、
近づかないで、身をひくというのだ。

明治時代の結婚の話なら、
「格がちがう」とか、
「どっちが立派すぎる」とか、
「つりあいがとれない」とか、
おかしなケチをつけて身をひくという話も
あったのかもしれないが、
これは「平成」の時代の、
しかも「ともだち」に関する話なのだ。

格差社会といわれて久しい。

親の年収が、
子どもの経験の幅に影響する、
そのようなケースさえ、場合によってはあると聞く。

つまり、豊かな家庭では、
親が子どものうちから年に何回も海外旅行に
連れて行ったり、
クラシックコンサートに連れて行ったり、
絵画展を見せたり‥‥。

私がこどものころは、
時代的にみんな貧しかったし、
貧富の差があるとは言っても、
田舎で映画館もなく、
クラシックコンサートにいこうにも、
そんな機会、みんなに平等になかったから、
お金持ちの家の子も、
うちみたいにそんなに余裕がない家の子も、
「格差」みたいなものをそんなにはつきつけられないで
やってこられたように思う。

いま、格差社会となって、
さらにお金で買えるものの幅が増えた時代のなかで、
経済的な格差を見せ付けられた上に、
自分が知らない海外のことなんか言われたり、
知らない固有名詞なんか出されたりすると、
「ひけめ」を感じて、
「私じゃ、つりあいがとれない」
なんて妙なことにもなってしまうんだろか。
それはちがうぞ、という気がしてならない。

みんな、どんな人とつきあいたいんだろう?

友だちにしても、
恋人にしても、
結婚相手を選ぶにしても、

「努力しなくてもわかりあえること」

それがいいと、
思っている人が多いのかなあ、と思う。

なんにも努力しなくても、
そのままでスルスルとわかりあえる、

つまり、共通項が多いこと。

たとえば、同郷であるとか、
同業であるとか、
家庭環境や境遇が似ているとか、
勉強や仕事の成績が似たような感じとか、
容姿や性格が似かよっているとか。
知識や興味、経験の幅が同様だとか。

結果、なにも言わなくても通じ合える、
1を言えば、10の背景を察知しあえる、
何を言っても、「わかる、わかる」と共感が得られる、

そういう人とつきあいたいという人が
多いのかなあ。

けれども、努力しなくてもわかりあえる
というのは、そんなに大切なことなんだろうか?

たしかにラクだろうし、
傷つかなくてすむだろうし、
だれとつきあうかはその人の自由で、
他人がとやかく言えるものではないんだけど、

私自身、ちいさいからなのだろうか、
どうも自分を肯定してくれる
似たり寄ったりの人間とつるんで、
こじんまり自分の世界におさまってしまうことのほうが、
むしょうに怖くてしかたがない。

私の友人が、求愛を断った経験があり、
そのときのことについて、こんなことを言っていた。

「先の先まで、ぜんぶ見えてしまった」と。

つまり、その人とつきあって、
その先結婚して、そこからどんな結婚生活を送るのか、
どんな人生を送るのか、
自分の生きてきた生活圏と、
相手の生きてきた生活圏が重なりすぎて、
そこからはみ出す部分があまりに少なかったから、
先の先まで、ぜんぶ見えてしまって、
だからおつきあいしなかったのだと言った。

ほんとにそうだよなあ、と私は思った。

世の中の大勢は、
先が見えない=不安で、
先が見える=安定・信頼で、
先行き予測できない相手と結婚するほうが
不安でたえられない、
となるのかもしれないが、
私には、
「先の先まで見えたからこそつきあえなかった」という、
彼女の気持ちがとてもよくわかった。

私自身、
こじんまり自分の世界におさまってしまうことのほうが、
檻に入れられるようで、たえられなくて、
自分の小さな枠組みから、
一歩でも、たとえ半歩でも、外へ外へ足を出そうと、
格闘してきたような気がする。

結果、友だちは、
自分の小さな経験で想像がつく世界から、
はみ出す部分を多く持っている人だ。

つまり、自分の小さな世界から、
外へ外へと連れ出してくれる、
そういう部分を持った人に、
魅力を感じ、友だちとして追っかけてきたような気がする。

「わかりあえること」よりも、
「わかりあえない部分」があるから面白い。

けれども、これは、口で言うほどラクではない。

「わかりあえない」とは、
さらっと言っているようだけど、
とってもつらいことだ。

ひどく傷つくし、ひどく腹がたつし、絶望するし。

「もう、こんなやつとはつきあわない」と
なんど友だちとぶつかり合い、
なんど友だちとケンカし、
なんど、もうだめかと思ったか。

傷ついたときは、たしかに弱って、
何を言っても「わかる、わかる」と言い合える人と
いるほうがいいのかなあ、と私もおもうのだけれど、

円と円を重ねた、「ベン図」というのがあるけれど、
その円と円がぴったり重なって、
はみ出す部分がない、というのは、
私には耐えられない。
なにか成長も、可能性も、
そこでとまってしまうような閉塞感がある。

墓場だ。

ぜんぶわかりあえてしまったら、
なんとつまらないことだろう!

かといって、円と円が、まったく重ならないのでは、
こころが通わず、友だちにもなれない。

円と円を重ねた、「ベン図」の
重なっている部分が濃くしっかりあり、
なおかつ、重なっていない部分が、
おたがい、大きな面積である、というのが面白い。

わかりあえない部分があって、ぶつかって、
けんかするからこそ、
「わかりあえた」ときの喜びが大きい。
なかなかわかりあえないし、
わかりあえないときにぶつかっているからこそ、
今、この友だちの言う「わかった!」というのは、
ほんとうに本物だな、と信頼できる。
感動する。

ぶつかってぶつかって、その果てにわかりあえたときに、
たがいに一歩、成長しているというか、
自分の枠組みから、一歩外へ出たような達成感がある。

それに、なんといっても、
未知の世界の香りがプンプンする友だちとのつきあいから、
もたらされる新鮮な発見、わくわくする広がりは、
ちょっと恋愛のように、
生活の色を素敵に塗り替える力がある。

どんな人とつきあいたいですか?

思うに、自分の枠からはみ出すものを多くもっている人との
つきあいは、わかりあえず傷つき、
腹が立つことも多いけど、
それは、なんというか税金のようなものだ。
傷つく、という税金を惜しまず払えば、
高い税金を払っても後悔しないだけの、
わくわくする新鮮な、面白い世界を見ることができる。

一方で、傷つかないこと、わかりあえることを重視すれば、
こじんまりとはしていても、安らかな、癒しの世界が
続いていく。

どんな人とつきあいたいですか?

私自身、歳とともに、
知らず知らずに、共通項とか、
バランスとか頭で考えていた。
むかしのように、無防備に、
「この人と友だちになりたい!」
という人に、衝動で突撃していくことがなくなったことに、
最近気づいて、ハッとした。

それは寂しいことである。

本来、友だちは、なくても生きていけるものだ。
なんの目的も、損得もなく、
ただ、好き、という気持ちだけで向かうものだ。

だからこそ、傷つくことを恐れず、失敗を恐れず、
たとえ世間が「格差」と決めつけるギャップがあろうと、
そんなもん、おかまいなしに、
「この人と友だちになりたい!」という人に
いくつになっても向かっていきたいと思う。

ギャップ=自分を外に連れ出す力だと私は思う。

友だち、恋人、結婚相手、
あなたはどんな人とつきあいたいですか?

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2009-08-26-WED
YAMADA
戻る