YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson451
  幸せな人も傷ついている



先日、ずっと仕事を続けてきてよかった、
と思うことがあった。

白い夏のセーラー服を着た1100人の女子高生、
その前で、私は、
「読む歓び、書く歓び」について講演をした。

それはまるで奇跡のように、
1100人の多感な10代と響き合い、通じ合い、
ひとつになれた瞬間だった。

通じた! という手ごたえが、ひしひしとあった。

高校生が次の授業に遅れることさえかまわず、
出口で待ってくれていて、
「ことばにできないけれど、ものすごい感動しました」
と伝えてくれた。

高校生のことは、
小論文の編集者時代から、
ずっとずっと4半世紀にわたって、
想いに想い、考えに考えてきた。

人はなぜものを読まなければならないのか?
人はなぜ書かねばならないか?
それも、私がずっとライフワークとして
教育において取り組んできたテーマだ。

予期せぬ運命で、
編集者を辞めざるをえなかった日、
一時は、もう2度と高校生には関われないかもしれないと、
喪失感にさいなまれたので、

こうしてまた、個人で、高校生の前に立ち、
教育の仕事をやっていることに、
なんともいえない感慨がある。

講演のなかでは自己ベストではなかったかと思う。

処女作を超えられないと感じる書き手が多いように、
私も、へたくそでも、生まれて初めて
命がけのようにしてやった講演が超えられず、
長いこと、初心の自分をライバルに戦ってきた。

およばずながらも、講演も続けてきて9年、
9年にしてやっと、
初心の自分を超えられたのではないかと思う。

経験が追いついてくるとはこういうことか、と
何かを長く続けることの歓びを抱きしめた瞬間でもあった。

そんなこんなで感動は尽きることがなく、
帰りの新幹線でも、ひとり、思い出しては泣けた。

ところが、

どうしてだろう? 
東京に帰ってきて、
周囲と不協和音を奏でている自分がいた。

おぼろげに、
「人は、とても嬉しいことがあったようなあとも、
 一時期、孤独になる」
ということを考えた。

以前私は、ここに
「言わないという嘘」というコラムを書いた。

それは、とてもつらいことがあった後、
それを周囲に言わないでいると、
周囲とどんどんどんどんギャップができて、
孤立する、または、周囲をうらむ結果になる、という話だ。

たとえば、人が一人死ぬような悲しいことがあった次の日、
いつもと変わりない日常がそこにあり、
みんなが、人ひとり死んだというのに、
いつもと何も変わらず動いていると、
ただそれだけで、人は傷つく。

自分の内面に抱える悲しみの大きさと、
それをまったく知らない外の世界との、
ギャップに人は深く傷つく。

これと同じ、とまでは言わない、
しかし、「嬉しい」ときも、
これと似たような孤独は起きるのではないか?

ちょうど講演のあった直後、
ひさびさに友人たちと会う機会があった。

私は最初、講演のことは友人たちに隠そうとした。

どんな言い方をしても、
自分の手柄を語ることは自慢にうつり、
周囲に受け入れられないとわかっていたこともあるが、
何より、

「わかってもらえるはずがないし、伝えようがない」

と思ったのだ。
講演はライブである。
ライブで感じた言葉にならない感動を
手短に、言葉で要領よく伝えられようはずもない。

それを無理に言葉にして、
あの感動が、友人たちに
矮小化されて受け止められることも、
私としては耐えがたかった。

私は講演のことを黙っていた。

ところが、そうして言わないでいるうちに、周囲と自分が
どんどんどんどん離れていく感じを覚えた。

とても悲しいことがあったあと、
なにひとつ変わらぬ日常が恨めしいと似た感じで、
自分にとっては人生の節目となるような
あまりにも感動的なことがあったのに、
何一つ変わらない(伝えてないのであたりまえなのだけど)
周囲の対応に違和感を隠せなかった。

自分の内面に抱える歓びの深さ・リアリティと、
それをまったく知らない外の世界との、
ギャップに私はなぜか傷ついていた。

人は嬉しいときも傷つくことがある。

うまく言えないが、
あまりに感動的なことがあったようなあと、
人は、そのことを周囲にうまく伝えられず、苦しみ、
孤立することもあるんじゃないかと思う。

たとえば、宇宙からかえった飛行士の中には、
その後、周囲との関係をたって、
厭世的になる人もいると聞いた。
まわりはそれを「宇宙ボケ」などと言うが、
あまりにすごい体験をして、
あまりに大きな想いを身のうちに抱えてしまうと、
それが嬉しいものであれ、悲しいものであれ、
周囲と分かちあいようもなくて、
孤立することもあるんじゃないかと思う。

私は、黙っているうちにどんどんどんどん苦しくなって、
友だちが、別の話をしているのに、
参加できなくなっていき、
せっぱつまってしまって、
すっとんきょうに
「どうしても聞いてもらいたいことがある」
と、唐突に講演の話をしはじめてしまった。

「やってしまった」のだ。

ふだんこのコラムでコミュニケーション術を説いているとは
とても思えない、
空気も読めないし、間も悪い、
私は、一方的にしゃべった。

その話し方のまずいこと、まずいこと、
自分で話しながらも、
「これじゃ伝わらないよー」と思いながら話していた。

どきん、どきん、となんか、泣きそうな感じだった。

私の伝え方はまずく、案の定なにも伝えられなかった。
すべったことは、自分でもよくわかった。

けれども、友人たちは、とまどったろうし、
あまりにも食えないその話を、
なんとか拾おうと努力してくれた。
そのことに感動した。

友人たちは、みな表現する人であった。
戯曲や、小説や、番組の構成や、
表現する人の痛みを知っている人たちで、

「ドンずべり」な表現に対して、
安易な同情はしないけれども、
無関心にとおりすぎることは決してなかった。
無視することが、表現されたものに対して
いちばんひどい仕打ちであることをしっていた。

友人たちは、
かわるがわる慎重に私に質問をなげかけながら、
なんとか、そこから話題をつなげようと努力してくれた。

「ドンずべり」だったけれども、
私は、それでも話してよかったと思った。

たとえ伝わらなくても、生の声をあげること、

それだけで、
ひきさかれゆく自分の内面と外の世界に、
なにかが通じ、風が通った感触があった。

そこをきっかけに、
わたしはまた、友人たちの輪の中に
入ってゆくことができた。

あやうく過去の幸せのリアリティにとらわれて、
いま目の前にある幸せと、
うまく通じ合えないところだった。

へたくそでも表現することで回避できた。

「幸せな人も傷ついている」

そんなことを、いまさらのように考えた。
友人たちは、結婚、妊娠、受賞、とおめでた続き、
世に言う「幸せの絶頂」にいた。

けれども、どんなにまわりが
「幸せの絶頂」のレッテルを押そうと、
人間だから、生きている限り、日々刻々と移り変わるし、
いろいろ考えることもあるし、
おおきな幸せの中に、
ちいさくても無視できない個人的な悩みはある。

たとえば、結婚し妊娠した友人は、
女性にとって、何よりの幸せを手にしたと、
うらやましがられ、おめでとうと言われる。
すごろくでいう「あがり」のように見る人もいる。
たしかに幸せなのだ。

けれども、職場で、
秋からの企画や担当が次々と決まっていくなか、
産休にはいる友人だけは、カヤの外だ。

そういう状況は、仕事を本当にがんばってきた人には、
男、女、こどものあるなしに、
まったく関係なく寂しいはずだ。

けれども周囲は、その寂しさに丁寧な関心を払わない。

「こどもが授かったのだからしあわせで当然」
「妊婦なんだから、こどものことを最優先に考えて当然」

こどもを生んで、それでも仕事をつづけるというと、
よっぽど仕事が好きか、よっぽど自己実現がしたいのか、
ととられるという。

そこには、男、女、こどものあるなしに、
まったく関係なく、
人間が社会的な生き物で、
社会とつながりながら収入を得る「働く」ことが、
ごく自然で必要なことだという見方が欠けている。

妊婦=幸せ、というあまりに大きなレッテルのもと、
あまりにおおざっぱに、その人の心の機微を
通り過ぎていると思う。

身のうちに幸せがあって
周囲に気づかれないこともつらいが、
周囲からいやおうなしに「幸せ」の烙印を押され、
身のうちにある小さくても無視できない悩みを
素通りされることもつらい。

いずれにしても、人は、
自分の内面にある想いと、
外からの見方が引き裂けているとき、
そこに緊張が生まれ、孤独を感じる。

身のうちにある歓びに足元をすくわれないように、
幸せのレッテルのもと、
人の感情の機微を素通りしないように、

常に常に、内と外をつなげる努力をしていたい。

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2009-07-08-WED
YAMADA
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