YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson443
  気づくと一方的にしゃべっているとき



「会話をしていて、
 気づくと自分だけが一方的にしゃべっている。
 相手はひいてしまっている。
 こんなとき、どうすればいいんでしょうか?」

先日、雑誌のコミュニケーション力の取材で
そう聞かれ、
私自身がドキリとした。

「やってしまった」ばかりなのだ。

その少し前、ある人と会話をしていた。
その人が最近読んだ本について話してくれたので、
ノったつもりで、
「そうそう、それにその作家、男前だしね‥‥」
みたいなことをとうとうとしゃべっていたら、
ふと、気がつくと、相手はのってナイ。

しゃべればしゃべるほど、
相手はふしぎそーな表情になり、
どんどん、とおーーーく、なっていった。

「気づくと一方的にしゃべってしまっている」

こんなとき、どうやって
再び生き生きと、
はずむ会話に戻していけばいいんだろう?

そのときの自分を彷彿とさせる光景を観た。

テレビをつけると、
エライ先生方にまじって、
若い女性のタレントさんが、
しゃべっていた。

「結婚」をテーマにした討論番組だ。

社会が変化してしまって、
昔のままの結婚のあり方では、
結婚しない、できない人が増えていく。
これをどう問題解決するか、というくだりだった。

そのタレントさんは、
「どうしてみんな、そんなに難しく考えるの?
 相手を本当に心から好きだから結婚する、
 それでいいのでは」
と「愛」の大切さを訴えていた。

私自身、愛のない結婚なんてしないほうがましと
いうタイプだし、そのタレントさんのことも
好きだし、
「そうだそうだ」と言ってあげたい、のに、
なぜか、のれない。それどころか、

自分も過去にこういう発言をして
周囲をビミョーな空気にしたよなあ、と
よみがえってくるのだ。

そのタレントさんは「はずしたか」というと
そこまでは言えない。
実際、愛という言葉に会場から拍手さえ
出たくらいだ。

でも、どういうのだろうなあ、
偉い先生たちは、それを否定することもできないし、
かといって、その議論に
くいついてくるわけでもない、
ちょっと引いて遠まきに、
この発言を扱いあぐねている感じに、
私個人は受け取れた。

ひと言でいうと、彼女がしゃべればしゃべるほど
「議論がもどる」
私はそう受けとめたのだ。

ちょうど平田オリザさんの講演を受講した方の
レポートに
こんなくだりがあった。


子どもが学校から帰ってきて、
ニコニコしながら、
「今日、宿題をやっていかなかったのに、
 田中先生は怒らなかったんだよ」
と言った時、どういう言葉を返してあげるべきか、
という問いかけが(講演のなかで)ありました。

「田中先生は怒らなくても、
 宿題はやらなきゃ駄目だよ」
という言葉は適切ではないそうです。
子どもが上記の言葉を通じて本当に伝えたかったこと、
それは、
「田中先生は優しい、だから、田中先生が大好きだ」
ということです。ですから、親としては、
その気持ちを汲み取って
「田中先生は優しいね、大好きだね」
と言ってあげるべきなのだそうです。

(夕学五十講 平田オリザ講演
 「演劇の方法論で学ぶコミュニケーション」
 受講者によるレポートより引用)



「コンテクストのずれをいかに克服して、
 相手の本当に伝えたいことをわかるか。」

「宿題をしない」ということは、
ただ言葉だけをとりあげて議論すると
「悪」になってしまう。

しかし、それが悪だということは、
渦中にいるこどものほうが、おとなより、
ずっとずっと切実によくわかっているはずだ。
親に知られたくない、
本来隠すべきことであることも。

では、なぜその「悪」をもちだしてまで、
わざわざ子どもがうれしそうに親の前で語ったのか?

「そうまでしても伝えたいことがあるんだ」
とわかる。

そこで言葉のうしろにあるもの、
背景や想いをくもうとすると、
いかに先生とのやりとりが、この子にとって、
嬉しく、大切で、伝えたいものであったかが
見えてくる。

タレントさんの話にもどると、
コンテクストがビミョーにずれているのだろうなあ。

「愛が大切」が必ずしも実現できない、
社会の現実があり、制度や雇用の問題があり、
うかうかすると、したい人が
一生結婚できない現実がある。
そういう背景のなかで、
なんとか、「個人と結婚、結婚と社会」を
よくしていこうと、
スペシャリストたちが知恵を絞りあっているのだ。

そういう文脈のなかで、
「愛が大切」と言ってしまうことは、
「宿題はやれ」と言ってしまう親と
同じになってしまわないか。

「愛」というような言葉は、トランプの切り札、
ジョーカーに等しい、
しゃべるほうは、独壇場になる危険性もあるし、
だれも正面きって反論できない。
愛に反旗をひるがえしているように見えて分が悪い。

「別に愛に反論しているわけではないんだけど、
 その発言は、ちょっと議論がずれてないかなあ」

私が感じた違和感はそういう感じだったのだと思う。

その発言にくいついていけないし、
否定もしづらいし、
かといって、さっと別の話題にいくのもへんだし、
どうしたものかなあ、
そう思うから、だまるしかなく、
しだいに遠くへ引いてしまうのかなあと思う。

私の話に戻ると、
読んだ本について話してくれた人は、
作家が男前だろうが、
なんだろうがそんなことはどうでもよく、
本の中の世界観を伝えたかったんだと思う。
それをくみとることができず、表面的にとらえて、
ずれた反応をかえしてしまった。

つまり、相手の「本当に伝えたいこと」が
聞き取れていない。

ほかの人はともかく、
「一方的にしゃべってしまっているとき」
あきらかに、相手の背景を思いやれない、
それゆえ、相手が本当に言わんとすることが
つかめない私がいる。

では、こういう状態になってしまったとき、
いかにして軌道を修正し、生き生きとした会話に
戻していけばいいのだろうか?

私のたいへん尊敬するライターに、
Mさんという人がいる。
私がしゃべったことを、
Mさんが記事にまとめてくれると、
自分以上に自分の言いたいことが伝わる。

Mさんは、私がしゃべった言葉をそのまま使わず、
かなり、Mさん自身の思い切った言葉で
つかみとって書く。

どうして本人以上に、本人が言いたいことが
わかる、伝わるような文章が書けるのか、
取材のときはどうしているのか?
私はMさんに、ラジオ「おとなの進路教室。」の
23章でたずねた。すると、

「要所に要約を挟みながら聞く」

ということをおっしゃっていた。
ある程度、まとめて話を聞いたとき、
要所で、「それはこういうことですか」と、
相手の言わんとすることを、
自分の言葉でグッと短く要約し、
相手に確認する。

それがずれていれば、相手は「いいえそれはちがう」
と軌道を修正してくれるし、本意を話してくれる。
要約が的確であれば、
「そうそう!」と理解された取材相手は
気をよくして、より本意を話してくれる。
だから、そこを記事に書けばいい。

つまり、ずれない。

こんど、自分が
一方的にしゃべるようなシーンになったら、
相手の言葉を、その奥にあるものに
神経を研ぎ澄ませて聞こうと思う。

ただし、そのような精神論だけでは、
「聞いているつもり」「わかったつもり」
になってしまう恐れがあるから、
要所で、相手のいわんとするところを
要約で確認しながら聞こうと思う。

要約のときは、自分の評価や感覚をいっさい混ぜず、
あくまで、相手の本当に伝えたいことだけを、
勇気を持って自分の言葉で要約してみようと思う。

「気づくと一方的にしゃべってしまっている」とき、

自分と相手は、ずれている。
哀しいことだ。
でも、お互い、本当に伝えたいことがあるからこそ、
ずれて、哀しいのだ。
なにも伝えたいものがなければ違和感もないし、
哀しくない。

その「本当に伝えたいこと」をくみとれる
私になりたい。

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2009-05-13-WED
YAMADA
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