YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson429 無意識にでた毒


「いったんけなしてから、ほめる・場を盛り上げる」、
私も、つい、やってしまうんだけど、
意外なほどに、人を傷つけてしまうことがある。

「後でほめるんだから」
「最終的には相手に良かれ」
と思って言った「前フリ」が、
ときに、覚悟して攻撃するよりひどく、
相手に刺さってしまうのは、なぜ?

読者の女性は、こう考える。


<悪意は本当に無いか?>

前回の「場を盛り上げようとして」を拝読して
自分でひとつ気付いた事がありました。

それは、後ほめをする際、
前に持ってくるフリは
「ずっと自分の中にあって伝えられなかった事」
であることが多いな、と言う事です。

その人への第一印象だったり
顔を見るたび思い出してしまうことだったり
直接本人に言うのは誤解が生じてしまいそうなので
口に出して言うことはしないけれど
でもどうしても心の中で思ってしまうことを
盛り上がっているムードの中で吐き出してしまう。
そんなパターンが多いような気がします

だからこそ、
受けた人はその一言に傷つくのではないでしょうか。

さりげない言い方の中に含まれる
今まで語られなかったその言葉の重みを感じてしまい
その後のほめ言葉なんか聞こえないくらいに
傷つくのではないかと思うのです

油断と言えば油断だけれども
悪意は全くないかというと
そうともいえないのではないかという気がします。
(とどろん)



どんなに素敵な人にも、
かならず良いところと、悪いところがあり、

たとえ相手が好きでも、それだけに
イヤなところは、
気になるし、
まちがっても相手に言ってはいけないと
努力して飲み込んだりする。

そんなふうにして、
ためこんでしまった「うっぷん」が、
「けなして、ほめる」話法の、
「けなし」言葉に、こもってしまう。

無防備だからこそ正直に、
たまりにたまったものだからこそ一気に、
表現されてしまう。

人は、表層の言葉より、
その根っこに込められた想いのほうに
深く傷つくのだと、改めて教えられる。

読者のたまきちさんは言う。


<ほかに何かないのか‥‥>

「場を盛り上げようとするとき、
人の気持ちに対する
油断ポイントも近づいている。」

すごくよくわかります。
結婚式や歓送迎会、
各種飲み会等々で本当によぉーく
そういう場面に遭遇しますし、
私自身もその場の流れとノリに身を任せ、
心無いことを言ったことはあるはずです。
きっと何度も‥‥。

一旦落とす過程なくして場は盛り上がらないのか?

一旦落とす演出は場を盛り上がらせる
だけのためなら効果はあるのはわかっています。
でも、その影でもしも快くない気持ちを
抱いている方がいたら
とても切ないし申し訳ない。

とにかく落とさないと場は盛り上がらないぜ。
という風に皆が皆思っていてそれこそ「お決まり」
もしくは「お約束」になっているのだとしたら‥‥?

さらにそれが日本の文化として
定着しつつあるのならば‥‥。

それって心寂しいなぁって思ったのです。
もっと別の方法や考え方で場が盛り上がらないのか?
誰もイヤな思いをしないような演出はないのか?

うーん‥‥。何かないのか‥‥。
(たまきち)



これを読んで、ふと、
「宴会を盛り上げようとしないいま時の若者は、
元気がないのではない、優しいんじゃないか」
ということを思った。

旧世代のおじさんたちからすれば、
宴会を自ら積極的に盛り上げようとしない若者は、
「なんだなんだ、元気がないぞ」
ということになるのかもしれない。

一見やる気なさそうに、
しれっと、まったりと、お酒を飲んでいたりする。

でも、彼らは、
「場を盛り上げようとすることで失うもの」、
「座にウケるより大切なもの」
に感覚的に気づいているのかもな、とも思う。

でも、じゃあどうするかという自己表現方法は、
まだつかめない。
だから一見元気なさそうに見えるのかも。

場を楽しむとはどうすることか?

たまきちさんの「何かないのか‥‥」
という問題意識が優しい。

読者の2人のメールから、
私自身、安易に、けなしてほめる手法を
排除しよう、ふたをしようと、思っていたな、
と気づかされ、
同時に、それじゃ問題は解決しないなと
気づかされた。

傷つけそうな手法を封印する道と、
ほんとうの優しい表現を目指す道は別物だ。

私自身、毒の宝庫だ。
いままでたくさん人を傷つけてきた。
けなしてほめる手法を安易に封印したとしても、
別のところに毒はでる。

この問題、安易な決着をつけず、
もう少し、時間をかけて、具体的に、丁寧に
私自身、見ていこうと思う。

その意味でも最後にこのメールを紹介したい。

ここでの「無意識にでた毒」とは、
「無知からくる偏見」だと私は思う。
私自身、昨日、葬儀屋さんのお世話になり、
この1年ほど、葬儀屋さんが、人の感情の機微に対して
どんなに繊細で、どんなにプロフェッショナルであるかを、
まざまざと感じ、助けられたことはなかった。

自分が傷つけた人、
あるいは傷つけてしまったかも知れない人、から
直接、胸中を聞くことはなかなかできない。

だから、傷ついた人の痛みに添う時間は、
いまの自分にとってとても貴重だと思う。


<傷つけないというスタートから始まるもの>

私の実家は葬儀を取り仕切る会社、葬儀屋です。

父が興した会社で、母も一緒に働いています。

葬儀が主ですが、
母の日などお祝い事のお花も、
ご要望があればお作りしています。

高校一年の時に、担任の先生に子供が産まれて、
クラスの皆でお花を送ることになりました。

私がお金を預かり、
母に作ってもらうことになりましたが、
葬儀屋だと知った友人数人が
『菊とか入れないでね。』
『黒いリボンとかかけるのやめてね。』

とおもしろおかしく言いました。

周りは笑っていましたが、私の顔はひきつっていました。

それを見ていた前の席の子が
『そういうこと言われるの、気にしてるの?』
と優しく声を掛けてくれて、その途端、
ボロボロ泣いてしまいました。
授業が始まる直前だったため、
そのまま保健室に行ったことを憶えています。

その後友人は謝ってくれましたが、
今思い出しても胸が痛みます。

何が悲しかったのかは、正直わかりません。

父母の仕事を侮辱されたように感じたからなのか、
もしくは葬儀屋の娘だと見られたことが
恥ずかしかったのか‥‥。

恥ずかしい、と思ったことは
自分の意識の中ではありませんが、
潜在意識にはあったのかも知れません。

私は20代前半まで、意識的に、
そして無意識のうちにも人をたくさん傷付けてきました。

でも人を傷付けることで自分も傷付きましたし、
その受けた傷を、私は忘れることが出来ないんだ、
ということを認識したんです。

そのため今は可能な限り人を傷付けないように、
人と衝突しないように生きています。

ただの臆病者かも知れません。

でも自己主張がハッキリしていて、
衝突をモノともしない頼もしい親友を見ながら、
自分のような中立がいたっていいんじゃないか、
と思います。
(ルナ)

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2009-01-28-WED
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