YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson339 出し方を知らない


先日、
店に入ったとたん
昔好きでよく聞いていた音楽が流れてきた。

急に涙があふれてきて
止めようがない。
人まえだったからかっこわるくてしょうがない。
しばし顔を伏せた。

「自分は悲しかったんだ」とそのとき気づいた。

ずっとのどがつっかえたような感じはあったけど、
とりたてて泣いたり騒いだりするでもなく、
ただ、「なんとなく元気が出ない」でいた。

その感情が「悲しい」と
言葉になると、「そうそう」、
としっくりくる自分がいた。

あのとき、あそこで、あの音楽に逢わなければ、
いまも悲しみを溜めこんだままだろうか?

絵や文章をかいたり、音楽やったり、
いわゆる「表現」にたずさわっている人は、
一度は聞かれる

「ひごろからイメージの元になるものを
 どう吸収し、どうためていくのですか?」

そんな質問に、
やはり表現に携わっている友人が、
「どうためるかというよりも‥‥」
と考えて、そしてこう言った。

「だれにも何かしらたまっているものはある。
 ただ出し方を知らないだけで。」

ピン!とくるものがあった。

私は昨年、オーバーワーク気味の時期があって。

アイデアなり、原稿なり、
出しても、出しても、「はい、また次」の、
アウトプットの日々は、
さながら日に一個しか卵を産めないニワトリが
それ以上を生み続けているようなもので。

出しても、出しても、次また出して……の、そのあげく、

ふいに友人にコメントを求められても、
言葉が出てこない、もうアウトプットするべきものが
何もない、というような感覚に襲われた時期があった。

じゃあ、あのとき、空(くう)だったかと言われれば、
そうではない。

そんな状態でさえ自分の中でたまっていくものはある。

不思議なもので、
どんなにアウトプットしすぎだろうと、
その消耗なり、不安なり、憤りなり、
それはそれで、また別のものがたまっていく。

自分でもそれに気づいて、
「いっそ出すべきものがないならこれを出そうか」
ともおもったのだが、
いままで自分が訓練してきた方向と
違う筋肉が要る感じがして、
出し方がわからず、出せなかった。

アウトプットの貧窮を
心底味わってもなお思う。

やっぱり出しすぎより、「出せない」方がつらい。

自分の中に正体のわからないものが
たまっていくことのほうがよっぽど深刻だと私は思う。

先日、ラジオでお会いした30歳の男性は、
高校1年生のとき、家のリフォームがもとで
シックハウス症候群になった。

もともとアトピーがあったこともあり、
かゆみで夜も眠れず、
かき傷の痛みで関節もまがらず、
医者に「手におえないかもしれない」
と言われるほどになった。

高校生活は、体育はずっと見学、
修学旅行などの行事にもでられないどころか、
勉強も、学校に行くこともままならず。

受験に遅れ、就職の機会をのがし、
受験は2浪、就職は4浪、150社落ちた果てに
28歳でやっと社会に出たが、その職も半年で失う。

そんな話をしていても、その人は爽やかで、
根の明るさが伝わってきた。

私が唯一やりきれなさを感じたのは、
私がこんな質問をしたときだった。

「病気になったのも、学校に行けないのも、
 どう考えてもあなたの責任ではない。
 明らかに自分ではない
 何かに責任があるというときに、
 私だったら住宅会社を憎んだり
 そういう家に住ませた
 親を憎んだりするかもしれない。
 憤りのやり場をどこに向けたのか?」と。

するとその人が、こう言った。

「もし憎むにしても
 対象があっちにもこっちにもあるので
 一つに絞れない。
 いろんなことが重なって
 こうなってしまっているので、
 正直言って、どうしようもない」のだと。
さらに、続けてこう言った。

「とにかくエネルギーからなにから
 “たまってる”という感じ。
 憤りも何もかも」

十代のエネルギーも憤りも、とにかくたまっている。

他につらい体験をいくつか聞いたのだが、
私にとっていちばんやりきれないのがその言葉だった。

同時に彼をとても強い人だとおもった。

まっとうな出す道がないのなら
自分の中にひたすらためこむ。
それができることが強い。

私だったら、身近で、わかりやすい対象、
しかも自分に抵抗できない対象をみつけて。
たとえば親にあたるなどして。
まちがった「出し方」をしてしまい、
ますます、抱えきれないものをためこむ回路に
はまっていったろう。

実際、いまも私は、弱いために、
そうしたまちがった「出し方」をして、
人を傷つけているように思う。

それでも私は
「書く」ようになってずいぶん助けられている。

私は、テーマの必要にせまられて
自分の失敗や、人間関係の葛藤を書くことがある。
どうしてだか、書いたことは、
現実の問題解決はしていなくても、
自分の中で、「済んで」いる。

書く前は、憎んだり、怒ったり、
ぐるぐる揺れたりしたことも、
現実に何かがどう動いたということがなくても、
書いたあとは、
不思議に自分の中でカタがついており。
もう、相手を憎もうにも、
ぐるぐるしようにも、思い出しても、
いっこうに書く前の気持ちはわきおこってこない。

出たあとは澄んでいる。

自分のように弱い人間でも、
人を恨んだり、憎んだりせずにいられるのは、
書くことをやってきて、
自分なりのまっとうな「出し方」というのが見つかり、
鍛えられてきたおかげのように思う。

そういう解放感をいま味わっている今だから、
よけい、
“たまっている”
という人の痛みをやるせなく思う。

受験で2浪、就職で4浪、150社落ちても
がんばってこれた彼の、支えは何か、という質問に、
その人は、
「自分はこれだけいろいろな経験をしてきたのだから、
 この経験は、いつかきっと何かに生きる」と
信じることだったと言った。

それが時間はかかっても、
彼にとっての、まっとうな「出し方」ではないかと思う。

だから、その人は、感謝こそすれ、
だれも憎まず恨まず、生きてきて、
いまも自分が経験してきたことを
人に役立つ形で「出す道」を、本気で模索している。

書くようになって、
幾分、出し方が見えてきたつもりの自分でも。

ふと、音楽にふれて、
あるいは、ふと人との関わりの中で、
自分の中に、思いもよらぬものが「たまっていた」
ことに気づかされることがある。

自分では気づいていない、
それゆえ出すことができない、
たまってしまったものの出し方をまちがえて
人を傷つけてしまうことは、もうよしたい。

たまったものに気づくには、
作品も含めた、人と関わるしかない。

コミュニケーションを通じ、たまったものを自覚し、
まっとうな自分の「出し方」を鍛えていきたい。

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2007-03-07-WED
YAMADA
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