YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson303 表現の体力


ものをつくる人も、
仕事でアウトプットが求められる人も、
自分のクリエイティブが落ちているとき、
どう立ち向かう?
――今日は、そんな話だ。

少し前、想うように
ものが書けなくなって、苦しんでいた。

自分の本来のペースを越えて、
講演や書き物を受けてしまったせいかと思う。

私は、たとえどんなにささやかでも、
ひとつ原稿を書くとき、
ひとつ卵を産むように、
自分の経験から何か、アイデアなり、
見方なり、観点なりを、ひとつ、考え出す。

そう、出産だ。

それが、人から見て、どんなにしょぼかろうと、
斬新でなかろうと、

出産する。

仕事でも、創作でも、手紙を書くにも、
たぶんここが、いちばん大変で、
面倒くさくて、億劫で、勇気がいって、しんどい、
それゆえに、尊い部分だ。

それに比べたら、
いったん自分が生んだものを加工したり、
人が生んでくれたものを
右へ左へ動かしたりすることの方が
ずっとラクだ。

だから、人は、
どうかすると、
この出産という一番大変なところから、
無意識に逃れよう、さぼろうとする。

クリエイティブな職場で、えらくなっちゃった人が、
いつのまにかクリエイティブが
やせるということがあるのは、
無意識に、この出産部門を
部下に任せてしまうからだと思う。

ものを書いたり、絵を描いている人でも、
実は出産していない人もいるし、
営業や、商売や、事務職をしている人にも、
自分で生んだもので勝負しつづけている人もいる。

私も、どうかするとラクをしたい。
しかし、出産のない仕事は、歓びも少ない。
だから、産む。
仕事が集中したときは、へこへこになって、
しょぼしょぼになって、産めなくて苦しんで、
それでも、うんうん時間をかけて、産もうとする。

「表現の体力が落ちている。」

しばらく不調がつづいたときに、
何がおかしいんだろう、
どうして書けないんだろうと、
せっぱつまって、考えて、
悶々としていた、ある日、そう気づいた。

ここで言う「体力」とは、
「なんでもカラダが資本」とか、
「仕事は健康第一」とか、
そういう意味の体力ではない。

似ているけれど、少しちがう。
極端に言うと病気の人でも、
「表現の体力」が、人並み以上にある人はいる。

たとえば、
「いま、アイデアがよぎった……」というとき、

そのアイデアに追いつくか、追いすがるか、
つかまえるか、逃がしてしまうか?

「表現の体力」があれば、ぱっとつかまえる。
少し体力が落ちていても、
なんとか追いついていって、すがって、つかまえられる。

しかし、「表現の体力」が落ちていると、
アイデアのほうに走り去られてしまう。
もっとひどくなると、
「よぎった……」と思うだけで、追いかけもしなくなり、
さらに、体力が落ちると、
「よぎった……」ことにも気がつかない。

目の前に、いいものが駆け抜けていっても、
見えない、聴こえない、さわれない状態になる。

また、「表現の体力」が落ちると、
「ここ、もっと突っ込んで考えよう」と思ったときに、
最後の最後のところで粘りがきれてしまったりする。

でも、表現の体力をどう回復したらいいんだろう?

今回やってみたのが、「運動」と「掃除」だ。
笑われるかもしれないけど、
ほんとにそうだからしかたがない。

書くために何かをする、というのは、
あさましいとも思った。
「運動」と「掃除」、
そんなことでほんとに鍛えられるのか?
長い目でみたら何の役にもたたないばかりか
むしろ逆効果になっていたらどうする、とも考えた。

でも、なにもせずに手をこまねいているより、
動き出すほうがよっぽどいい
やってみて、自分の体で実験してみて、
だめなら改めればいいだけだ。

気づけば、仕事が集中してから、
長く運動をしていなかった。
以前は、ランニングと水泳で、どっちかというと、
ゆっくりと長くカラダを動かしていたが、
今回は、もっと、瞬発力とか、集中力を鍛えようと、
短い時間に、集中して、体を鍛えるようになった。

掃除と表現力の関係は、長くなるので
またの機会にしたいのだけど、一つだけ言うと
掃除はおもしろいのだけど、やっているうちに一回は、
面倒になって、
「いったいこんな非生産的な行為が何になるんだ」と、
徒労感がくる瞬間がある。
しあげたところで、何が、どうなるわけでもない。

ところが、腰を据えて掃除して、
その場を、雑巾などを洗うためにいったん離れて、
また、戻ってみると、
まったく別の空気が流れているというか、
新鮮な空間が生まれていることに、驚くことがある。

そんなこんなで、自分なりに、表現の体力をつけようと
意識して、あれこれ奔走してみると、おもしろいもので、

徐々に、いまよぎったアイデアを追っかけたり、
追いかけてつかまえたり、
という感覚が戻ってきた感じがする。
戻ってきかけて、やっと、
それまで、ずいぶん、体力が落ちていたんだな、
いいものが駆け抜けていっても、
ずいぶん逃がしてたんだろうな、
と、いまさらながら実感する。

嵐のような仕事の集中がなんとか過ぎたころ。

ひさびさに、私用を片づけようと、メールをあけた。
ついつい後回しになっていた用事が
ずいぶんたまっていた。

それらをひとつひとつ、片づけていこうとして驚いた。
「なんだろう、この、にぶりは?」
仕事以外で、メールを書こうと思ったら、
言葉が出てこない、
書いても、とても幼稚な、
こどものような文章になってしまう。

「表現の体力を落とした原因はこれだ」

そのとき、ぞくっ、と気づいた。
仕事の書き物は、ある方向がある。
自分が経験した延長上とか、
自分が目指す方向とか。

でも、日常の雑事は、
360度、あらゆる方向からやって来る。
ときには思わぬ方向から来て、
ひざをカックーンとされることもある。
細かいこと、それなのに、わずらわしいこと、
一見、非生産性的に思えること、
それなのに、説明に非常に骨が折れること。

でも、そういった、モチベーションのわかない雑事に、
腰を据えて取り組んで、
丁寧にコミュニケーションしていった果てに、
おもいもかけず、相手と通じ合い、
気持ちのいい風がとおり、
ちょっと別世界を見るようなときがある。

日常こそ修行の場だった。

「山田ズーニー」で仕事をはじめたころは、
私が何者か、何をしている人かさえもなかなか
わかってもらえず、ときに、うさんくさがられ、
でも、あきらめず、いちいちそこから説明を起こし、
自分の外に対して
コミュニケーションの橋をかけていった。
面倒なことを何一つ逃れられない立場にいたからこそ、
コツコツと表現の体力はついていった。

人は、どうかすると、出産という一番大変なところから、
無意識に逃れよう、さぼろう、人にやらせようとする。

つまりは、私が、忙しいからと、疲れたからと、
後回しにし、ため込み、無意識に避けてしまった部分、
そこに出産の芽があった。

日常、すっとばして、何が表現力だ!

自分で自分を叱る声がした。
日常、もっともわずらわしい局面で、
それでも逃げずに、あるいは、逃げられず、
もっとも面倒なことを任され、
それでも産み続ける人こそが、
ここぞというときに、
大事なものを、見、つかまえ、粘り、
オリジナルを生み出す表現の体力を持つと、私は思う。

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(河出書房新社)



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『おとなの小論文教室。』河出書房新社


『考えるシート』講談社1300円


『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円



『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

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2006-06-07-WED
YAMADA
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