YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson 293 いきたいところ


4月1日、
新宿の紀伊國屋ホールでワークショップをやります。
あえて昨年と同じ「自分を表現する」という
直球のテーマをもってきました。これ以外にないと。

いままで、たくさんたくさん、
企業や、大学や、全国各地、さまざまなテーマで
ワークショップをしましたが、

中でも、
「自分」について考え、想いを語っているときが、
いちばん人の顔が輝いています。

ワークショップで、私が好きなのは、
人が、人の話を聴いているときのすがたです。

人間って、からだで、人の話を聴くんだな、と想います。

グループワークなどで、
素朴なひと言に、
その人の想いがにじみ出る瞬間があります。
それに思わず共鳴し、われを忘れて聴き入っている人の、
なんとも澄んだすがたが好きです。

このコラムの読者もたくさんきてくださるようで、
うれしくもあり、そして、ドキドキです。

お一人でもふらりと気軽にこられるというか、
むしろ、
一人で出かけたほうが楽しめるライブだと想います。
安心して、身ひとつで、おでかけくださいね。

土曜日にお会いしましょう!

さて、今日は、
バンドで音楽をやっている青年のこんなメールから。
まず、読んでみてください。

=
僕はいま、3人組のバンドをやっています。
ジャムセッションという方式で音楽を作っています。

なんの打ち合わせもなしに、
いきなりスタジオで音を出し合い、
ひとつの曲を作っていくのです。

僕がいま困っているのは、
バンドで曲を作ることが困難になってきたことです。

最初の1,2年くらいは、
毎回セッションで
曲が誕生するような、そういうバンドでした。
それが、だんだんと全員が納得するような
セッションができなくなってきてしまったのです。

その原因は、僕にあるのだと、
いつも他の二人から言われています。

僕の出すギターの音、歌、
すべてのフレーズがいつも同じような感じで、
つまらないというのです。

僕は毎回、
気を抜かずに考えてやっているつもりなのですが、
メンバーから見るとそうではなくて、
テキトウにやっているように見える、
一緒にやってても面白くない、
だからこっちもやる気が起きない、
ということらしいのです。

実際、自分でも思い当たる節があります。
たしかに、最近の自分の音のレパートリーが
少なくなってきているような気がします。
そして何より、瞬間のひらめきというものが、
無くなって来ています。

セッションは、瞬間の勝負です。

それが、以前よりもかなり出来なくなって
きてしまっているので、
結局いつも時間を掛けて作っています。
大半は自分が悩んでいる時間のような気がします。
自分のフレーズを考えるのを、
他の二人に
待ってもらってしまっているようなところがあります。

それと、セッションの中で曲を造り上げていくのには、
「文脈力」が必要だと感じています。
バラバラの「音」を「音楽」にしていく、
文脈を作っていく力です。

この文脈が中心にあることで、
このセッションがどんな方向に向かっていくのか
全員がわかっていき、
曲というひとつの形になるのですが、
最近の僕にはこの文脈を導いていく力が
無くなってきているのではないか、と感じています。

このバンドでは、ボーカルである僕が、
セッションの中で「音」たちを曲に仕立て上げる歌を
セッションの中で出さなければいけないのです。
だから、僕の文脈の力が落ちているから
セッションが
曲という着地点に届かないでいつも終わってしまって
いるのではないか、と思い、責任を感じています。

もちろんそれをただ嘆いているだけではありません。

様々な音楽を聴き、さまざまな人と話をし、
いつもヒントを探しているのですが、
もう1年以上、良いセッションが出来ていません。

メンバーは、
僕とセッションをするのが苦痛だと言っています。

週2回、スタジオでバンドで集まるのですが、
毎回怖くてたまりません。
今日は何を言われるのだろう、
また自分のせいで他の2人に
イヤな思いをさせるのではないか、と。

自分が出す音楽に、いま自信がありません。

何度やってもメンバーを納得させられない自分が、
アホなのではないかと考えてしまいます。
一番の問題は、
とにかくメンバーと同じように
音楽を楽しめていないことです。
自分が良い、と思ったフレーズ、音楽を、
メンバーにわかってもらえないということです。

ライブに来てくれるお客さんや、
CDを聞いてくれた人にわかってもらえなくても、
そこまでは気になりません。
それは仕方がないなあ、と思えるのですが、

一度は心を一つに、共にモノを作ったメンバーから
こうして
見放されそうになってしまうことが悲しいのです。

もういまは、音楽が「良い」ということ自体が、
よくわからなくなってしまっています。
創る楽しさを、味わえていません。

ズーニーさんは、文章を書くなかで、
こうした苦悩はありましたか。
また、そういうときはどうしましたか。

そして、
文脈を一つの流れの中で作っていく力を
鍛えるのには、どうしたらいいのでしょうか。
〈読者Mさんからのメール〉

ズーニーです。

いただいたメール、言葉のひとつひとつ、
わっかるなあ、と想って読んでいました。

でも、何度、読み返しても、
すっ、と入ってこない言葉があるんです。

それは「文脈力」という言葉です。

私が音楽をやってないせいだろうか、
どうしてか、この言葉で、
なにかがとまるような印象がします。

止まっているのが、なんなのか、
私の理解の限界なのか、
それとも、Mさんの側のなにか、
思考停止ポイントのようなものなのか?

ここだけが腑に落ちない、
なぜなのかなあ、と考えてみました。

私も苦しい。
書き始めてからこの6年間、
いっつも苦しいのですが、
不思議なことに、私は、
「もっとはやく書けるようになりたい」
と想ったことがないのです。

書くのは、
6年前にくらべると、相当はやくなっています。

はじめのころは、
このコラムを5日かけて書いてたんです。
恥ずかしいけど、ほんとうのことなんです。
それが、3日で書けるようになり、2日になり、
いまは、半日で書けるようになりました。

でも、それはいいことか? と考えたら、
むしろ、朝陽が昇るのも、陽が高くなるのも、
日が傾き、西陽が顔にあたるのも気がつかず、
両目の下に、おおきなシミをつくって、
たった1本の無償のコラムを、5日がかりで
書いていた自分に、尊敬すら感じるのです。

もっともっと
書くものに時間をかけなきゃいけないな、と。

「もっと量できるように」とも想ったことがありません。
昨年から一気に仕事量が増し、
ずーーっと、オーバーワークできました。
たとえば、週に5作の原稿と講演を、
新作でつくらなくてはいけなかったようなとき、
まるで、卵を産む鶏のように、
「生め、生め!」と追い詰められていくようで
ぎりぎりのところで、
搾り出すようにして書き上げたものが、
自分でもつまらないと思うときの
絶望感といったらありません。

鶏も卵を産む量に限りがある。
いまは、やりたい仕事でも、
量を考えて断るようになりました。

締切を守らないことは別ですが、
書くのが遅いこと自体に対しても、
量がこなせないことに関しても、
私は自分を叱ったことはありません。

もっとはやく、もっとラクに、もっとたくさんの
いいものを生み出そうという、
いわゆる効率への関心が、現時点ではありません。

「書きたいことはあるか?」
「それはおもしろいか?」

このたった2つを、
それがなくなることを私は恐れます。
おもしろいかどうかとは、
自分と、自分以外の「1人」の読者にとって、です。

いままで何度か、この2つの、ゆきづまりがきました。
ちいさいのは日常茶飯事ですが、
どでかいのが襲ってきたことがあります。

初めて襲ってきたのは、
全身全霊で、生まれて初めての本を書き上げて、
しばらくたったころでした。
本を書いた直後は、ものすごく調子がよかった。
けれども、それからしばらくして、
ガクーンとモチベーションを失った。

それでも、なんとか、書いて書いて、苦しくて苦しくて、
それが続いた、ある日。

朝から、このコラムを書いていて、
1本書いて、
「だめだ」と思って、もう1本書いて、だめで、
もう締め切りぎりぎりで、3本目を書いた。
読み返して、「だから、なんなの?」と自分で想った。
それは、まとまった文章だったけど、
技術に頼って書いていて、つまらなかった。

ついに、枯れたか………………。

途方にくれて、呆然と受話器を握り、
担当編集者さんに電話をしました。
「なんもでてこない。
 朝から3本書いたけど、
 だから何なの? と、自分で思う。」

すると、編集者さんがこう言ったのです。

「山田さん、一冊、本を書いたんですよね。
 自分の基準も高くなっているでしょう。」

びっくりしました。
これは枯れたのではない、
自分の原稿を見る目が厳しくなった、というのです。

たしかに、一度、自己ベストをだせば、
自分も、編集者も、読者も、
目が肥えて、厳しくなる。それ以上を要求する。

思い直し、朝までまってもらって、私は、
「知りたかった答え」を書き上げました。
自分で爽快感があり、
編集者、読者からも、すごくいい反応が返ってきました。
そこで、一度目の危機は突破しました。

二度目の危機を救ったのは、
逆説的ですが、辞めよう、と覚悟したことでした。
終わりがないとおもうから、
人はヘンな守りに入るのです。

私は、
「書きたいことはあるか?」
「それはおもしろいか?」
その二つを失ったら、
潔く辞めなくてはいけないと、
自分に言い聞かせていました。

で、その日、とうとう、ほとほとゆきづまって、
いよいよ「辞めなければ」が、
現実のものとして迫ったとき、
からだのなかから、
「いやだーーー! そんなのいやだーーーー!!!」
という声が、強烈に沸いてきたのです。
二度目の危機は、そのことを書いて脱しました。

自分が編集長、といっても、
まだペーペーだったころ、
ライターや、デザイナーや、大学教授や、
猛獣のようなメンバーから
毎回、噛み付かれていたときも、

いま独りになって、
編集者や読者との間でものを書くときも、
自分にいちばん、求められていることは、

やりたいこと、書きたいもの、つくりたいもの、
つまり、「どこ行きたいか」ではないかと思います。
どこ行きたいかが明確な人は、人を吸引するし、
それがあれば、技術は、後からついてくる。

しかし、その「書きたいもの」というのが、
長くやっていくにつれ、
書きはじめのように、
「自立」とか、「文章術」のように、
単純に言語化できるようなものではなくなってきます。
もっと、複雑だったり、
もっと言い表せないものになってきます。

そういうものをやるには、以前より時間もかかるし、
つくりかたもかわってくるし、
つくりかたそのものを、
手探りでつかみにいかねばならない。
一時的に質も落ちるし、周囲のきげんも悪くなる。

でも私は、それも進化と見ます。

じゃあ、いま、自分に、「書きたいものはあるか?」
と問われたら、あります。それと格闘中です。
でもそれは、単純に言い表せるものではありません。

それでも、あえて、言葉にするなら、「進む」ことです。

抽象的でごめんなさい。
目新しいものをつくる、というのとも違います。
質を上げる、というのとも、似ているけれど違います。
より面白くする、というのとも、やっぱり違います。

すでにやったことではなく、「その先」を見たい。

だから、行きたいとこはあるけれど、
そこにいく手段がわからないし、経験もない。
だから、私は、効率をすっとばし、
人から見れば、ぐずぐず、
のろのろと、歩んでいるところです。

…………………………………………………………………


『理解という名の愛が欲しいーおとなの小論文教室。II』
河出書房新社


●刊行記念ワークショップ開催●
新宿・紀伊國屋ホール
4月1日(土)17:00−20:30 
チケット(1000円)は3月13日より
キノチケットカウンター(紀伊國屋新宿本店5階)にて発売
予約・問い合わせ 03−3354−0141
紀伊國屋書店事業部



『おとなの小論文教室。』河出書房新社


『考えるシート』講談社1300円


『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円



『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2006-03-29-WED
YAMADA
戻る