YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson 276  生きがいを変えろ


友人が人事異動になった。

「降格だ」
と浮かない顔をしている。

彼女は40代。

入社以来、
ずっとがんばってきた花形の部署から、
ちがう部へ行けと言い渡された。

人事の、季節はずれのことだった。

それは、
私がもといた会社の序列では、
むしろ栄転だし。

異動先の部は、
いわゆる「いまどき」の、
面白そうなところだ。

別になぐさめなどではなく、
私が心からそう言っても、

彼女の中で、しぼんでしまった火種、
そこから広がる不安、
縮んでいく彼女の輪郭は、
どうすることもできない感じだった。

「生きがいを変えろ、ってことですよね」

そばにいた、H先生が言った。

H先生はスクールカウンセラーをしている女性で。
人に対する理解が深い。
私は、仕事でH先生に会うのを
とても楽しみにしている。

「この異動は、
 “生きがいを変えろ”ということですよね」

H先生が、
そう定義してくれたときに、
「ああ…、この人は、わかってくれる」と
友人よりも、私のほうが癒された気がした。

私もやはり、

会社にいたとき、
16年近く勤めた部署から異動を言い渡された。

あのときは、表皮だけで立っていて、
カラダの中心が、さらさらと砂時計の砂になって
崩れていくような哀しみを感じた。

それは、日が経つごとに、大きくなり、
やがて激痛に変わった。

「そんなことを思っちゃいけない」

何度も自分に言い聞かせた。
異動がツライなんて、サラリーマン失格だ。
そんなこと思ってはイケナイ、
そもそもそんな感情、あってはイケナイ。

あのときの私の哀しみは、
まわりのだれにも、
自分自身にさえ、

「承認」されなかった。

あのとき、H先生のように、
その哀しみを「承認」してくれる人がいたら、
どんなに安らいだろう。

人事異動、転職、退職、定年後の再生……。

それらは、決して少なくない人たちにとって、
「生きがいを変えろ」を意味する。

わたしのような仕事人間にとっても。
「ほかにないから、なしくずし的に
 仕事が生きがいになってしまっている」
という人にとっても。

ニート、フリーター、新卒就職活動生……。

そのうちの、決して少なくない人たちにとって、
定職をもて、とは、きっと
「生きがいをつくれ」に等しい響きだ。

私は、会社を辞めてから独立するまでの重圧を、
どう名づけていいかわからなかったが、

いま振り返れば、
「生きがいを組み替える」という難事業をやっていた。

それは、自分流の言葉で言うと、
「アイデンティティの組み替え」、
という言葉がぴったりする。

「アイデンティティ」と言えば、

カルロス・ゴーンさんの講演会に出た友人が、
「会社に大切なものは、
 アイデンティティとモチベーション」
と聞いたと教えてくれた。

アイデンティティとモチベーション。

これを日本人にしっくりくる表現にすると何だろう?
学術的には正しくないが、

「生きがい」と「情熱」。

「やりたいこと」と「やる気」。

そんな感じだろうか。
2007年には、
ものすごい数の人が、定年退職を迎え、
その中の、決して少なくない人が、
「アイデンティティの組み替え」問題に遭遇する。

私は、会社を辞めて、
再び個人として社会にエントリーするまで、
つまり、アイデンティティの再構築まで、
かつて経験したことのない足腰立たない状況に遭遇した。

あのとき、いったい何が起きていたんだろう?

あのときの私は気づかなかった。
予想外の不運と、
予想外の幸運が、身に迫っていたことに。

これは私の場合だが、
会社を辞めることで、
いったん、仕事を失い、
生きがいを失い、いわゆる
アイデンティティ・クライシスみたいなことが起こる。
ここまでは、いい、覚悟の上だ。

さらに、人とのつながりを失い、
すると、徐々にモチベーションも萎えてくる。
でも、それもまだいい。

問題は、自分が知らないうちに
「少数派=マイノリティ」になっていたことだ。
予想外の不運とはこのことだ。

生まれたときから、
日本社会の「多数派」を生きていたので、
あまりにあたりまえで、
自分が「多数派」を
生きてきたことにさえ気づかなかった。

どこにも所属してない人間は、
この社会ではマイノリティだ。
そして、マイノリティになってみると、はっきりわかる。

この日本社会は、
圧倒的に、「多数派」に生きよいようにつくられている。

アイデンティティということで言えば、
「多数派」は、悩むけど、そんなには悩まなくてもいい。

私も、小学校、中学校、高校、大学、企業……と
ヤドカリが、貝殻をすげかえるように、
アイデンティティをすげかえてきた。

「多数派」を歩む限り、アイデンティティは、
「学校」とか、「会社」というように、
まずハコが用意されていて、
入試を受けて、なんとかどっかのハコに入ってしまえば、
その中に、自分の「ポスト」が用意されている。
最低限は、ホショウ、される。

この「ハコありき」の
アイデンティティが多数派だというのは、
多数派の頂点であるエリートが
定年退職後も、顧問として残ったり、
2重、3重の天下り先を用意したり、
何重にも、
ハコを確保していることからもうかがえる。
その気持ちは、とてもわかる。

ところが、いきなり「個」となった私が、
個として、再び社会にエントリーしなければならない、
アイデンティティを
つくっていかなければいけないというときに、

そこには、指南書もなく、社会的な受け皿もなく、
いわゆる「野ざらし」状態だった。

ハコありきのアイデンティティづくりとは、
全然ちがうアプローチが必要だったんだろうが、
そんなこと、やったことがないからわからない。

そもそも、アイデンティティって何?

追い詰められた人間の動物的なカンからか、
私は、アイデンティティは、どうも自分の中にはないな、
と感じていた。

郵便ポストとか、
メールを受信する音とか、
インターネットの中に、
どうも、ありそうな匂いがする。

それから基礎工事3年、
完成2年、
という感じで、5年かかって、
私は、再び、社会にエントリーした。
アイデンティティの組み替えは、
どうにかこうにかできていた。

そのとき、私は、ヤドカリでなく、
蜘蛛=スパイダーになっていた。

スパイダーのように
自分の腹から糸を出し、
それをつむいで、まずは1本、人との絆をつくった。
最初の1本までは、
気の遠くなるような孤独の日々だった。

そして、また1本、
つぎに、また、1本、
これがまた、恐るべき忍耐の日々で。

それが、しだいに蜘蛛の巣状になり、

5年経ったときに、
ささやかだけど、自分という個を基点とした、
ネットワークが張られていた。

私は、アイデンティティとは、
このネットワークそのものだと思った。

自分探しじゃない。
自分を探すから迷走するのだ。
そうじゃなく、
絆づくりなのだ、といま私は思う。

身に迫っていた予想外の幸運とはこのことだった。

個人を基点としたアイデンティティの組み方が、
我流ながらも、何とか取得できたことは、心強い。
自分から生えたもので、いつでも、はじめられる。
そんな自由さがある。

しかも、この巣はなかなか住み心地がいい。

異動がきたり、
退職がきたり、
自分のいるハコとアイデンティティが
ちがってきしんだり。

生きがいを変えろ、というサインがきたら、

チャンスなのだ。

こんどこそ、
自分を起点にして、定年のない
アイデンティティを組み替える。

人間という仕事に定年はこない。
自分という仕事は一生現役である。

まずは1人の他人との絆をつくる。

そこから、生きがいの組み替えは始まると思う。

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『考えるシート』講談社1300円


『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

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2005-11-30-WED

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