YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson 266 言えなかった「ひと言」

自分でもほんとうに嫌になるが、
この5年あまりのフリーランス人生で、
周囲の人を次々に傷つけてしまった時期があった。

急に、仕事のオファーが増えて、
一気にたくさんの人々と
関わるようになったころのことだった。

いま思い出しても、心が痛む。

自分が傷つけてしまった人たち、
ほんとうに、ごめんなさい。
謝っても、とりかえしがつかない。

あのときの自分は、
触れると切れるナイフのようだった。

神経がとんがっていて、
周囲の言動が、いちいち、触れる。
それがつのると心がきしんで悲鳴をあげる。

でも、まわりの人は気づかない。
まわりの人は、罪の意識はなく、
厚意で私に接している。

当時の私には、罪の意識さえ感じない人に、
土足で心を踏まれているようで、
その鈍感さこそが、いたたまれなかった。

まわりの人は、
何が、私の気に障るのかわからず、
腫れ物に触るように接する。

よけいに孤独感が強まる。

強烈に人を疎んじ、遠ざけながら、
心のどこかではまた、
強烈に人を求めてもいた。

まるで思春期の非行少年のようだ、と思った。

まったくいい年をして、
なんで私は、思春期や青年期のような、
自意識過剰なことをやってるんだろう?

「山田さんは、会社を辞めて、
 それまでのものを一回全部リセットして、
 ゼロからはじめて5年だから、
 社会人で言えば、ちょうど27歳の青年」
と、ある編集者さんが言ってくれた。

独立したてのころは、
一件の仕事の依頼もなく、一通のメールも来ず、
だれからも、そこにおるかとも言ってもらえず、
よく、「サッパリ!」と言っては、
空を見上げた日があった。

そんな砂漠のような状況でも、
私は、いつも人に対して、ひらいていた。

ところが、せっかく
たくさんの人が手を引いてくださるようになって、
本来ならうれしくてたまらないはずのときに、
私は、まわりの人に対して閉じてしまっていた。

いまはもう、抜け出せたけれど、
あのとき、自分の中でなにが起きていたのだろうか?

先日、ワークショップに参加してくださった女性から
こんなメールをいただいた。

<最後に出てきたひと言>
ワークショップでは、
「妹に、私が素直に生きたいということを
 理解してもらいたいと伝える」
を私のテーマにしました。

妹とは3歳違いという微妙な年齢差のためか、
自分より要領よく生きている
(ように私からは見える)
妹に対して全く素直になれず、

向こうも私のことをうるさく思っていて、
彼女からはほぼ口をきいてくれない状態です。

そのような状況をどうにかしたい、と思い、
インタビュー形式の質問に答えていく形で
考える作業をしていきました。

自分にうそをつきたくはなかったので、
思うまま答えました。

そして自分の答えに愕然としました。

「妹さんに対して一言いうとしたら?」
という質問に対して、出てきた答えが

「ごめんなさい」だったのです。

なんで?
よりによって、なぜ「ごめんなさい」なの?
あんなにもいつもイヤだと思っているのに。
    (読者 Mさんからのメール)


ずっと確執があった妹さんに、
Mさんがほんとうに伝えたかったことは、
嫉妬でも、悔しさでも、
自分をわかってという要求でもなく、
「ごめんなさい」だった。

罪悪感が、ずっとMさんの胸を塞いでいたのだ。

ていねいに問いを立てて考え、最終的に、
心の底にあった想いを言葉化して外にだせたとき、
一気にわだかまりが解けることもある。

私は、あのナイフのように
尖って人を傷つけていたときの、
自分の底にあった言葉はなんだったのか、
考えずにはいられなかった。

いまから思えば、
「私のキャパが足りない、ごめんなさい。」
認めなければいけない現実は、
それだけだったように思う。

急に増えた、周囲の要求や期待のなかで、
私は、無理をしていたと思う。
とくに、対人関係だ。

私は、もともとサービス精神が強く、
関わる一人一人の人に、
きめ細かい対応をしたい。
相手の要求には、できるだけ応えたいし、
満足してもらいたいという欲が強い。

だから、人とは数少なく、
じっくり向き合うタイプだ。
日に何件もミーティングを入れたり、
初対面の人と、
たてつづけに何人も、何十人も会ったり、
未消化な思いを残したまま、会話を切り上げたり
そういうことは、かなりきつかったはずだ。

それでも、すべての人の要求に
完璧に応えたいというような、
それができるかのような、
幻想をどこかでもっていた。

そんなことできるわけもない。

たぶん、次々に仕事のステージは大きくなり、
そのプレッシャーを孤独にのり越えるうち、
恥ずかしいが、「自分の力でやれるんだ」という
自負心がいつしか誇大になっていたのだと思う。

強まるプレッシャーの中で、
自負心を手離したら、おしまい、
押しつぶされてしまう、というような、
臆病さもあったのだろう。

人間、苦手な相手もいれば、
努力しても相手の要求に添えないときもある。
それは自分の限界を見せつけられる瞬間でもある。

それを無意識に認めたくなかった私は、
そういうときほど、
相手の要求に応えたい、応えねば、
私なら応えられるはず、
と気負って、アクセルを踏んでしまっていた。

ところが現実には、ムリムリ、自分の度量をこえている
とブレーキがかかる。

アクセルとブレーキの間できしむ。

アクセルとブレーキのきしみは、
まわりの要求と、自分のキャパのきしみだ。

まわりの要求に、自分のキャパがつりあわないとき、
反応は二つある。

自分が悪いとへこむか、
まわりが悪いと腹を立てるか。

自負心が手離せなかった私は、
結局はまわりに責任を向け、
自分の限界を受け入れることから逃れていた。

それで、人を傷つけてしまった。

よせくるプレッシャーに
いっぱいいっぱいだった自分を思う。
「自分のキャパを越えていた」
認めなければいけないのは、そのことだった。

自分を美化するわけではないが、
その根底には、自分のキャパを越えてでも、
「出会う人みんなに歓んでもらいたい」
という私の願いがあったように思う。

心の底にあったこの言葉、願いを受け取って、
果たすため、
これからコツコツと、
自分の度量を広げていこうと思う。

それが私にとって、あのとき
言えなかったひと言をアウトプットすることだと思う。

…………………………………………………………………



『考えるシート』講談社1300円


『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2005-09-21-WED

YAMADA
戻る