YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson214 本当のことが人を活かす


いま、表現力の教育サポートをやっていて、
あらためて思うことがある。それは、

本当に想っていることが言えたとき、
人は、深い内的な歓びがあるということだ。

それだけでなく、
本当の言葉は、聞いている人まで、
すーっと昇華させるような力がある。

印象に残るスピーチをする人も、
かならずしもいいことをいっているわけではない。

それどころか、きわめて、ふつうのことだったり、
ときには、たどたどしかったり、
ときには、文脈がおかしかったりする。

それでも、本当のことを言ったら、
なにか、場を席巻するような響きがある。

生きてきたその人と、言葉の一致。

人はそれを感じとる力がある。
人が、本当のことを言っている、
ただそれだけで、ほんとうに面白い。
その場に活気がみなぎってくる。

逆に、本当のことが言えないと、
人は、どうしてか、活気がなくなっていく。

積極的にうそをつく人は少ないと思う。
でも、
「この場は、このくらいのことを言っておけば」とか、
「なにか言い出せない空気」を感じて、
実感のない言葉でやりすごしてしまうことがある。
それも、やっぱりうそだ。

そういう嘘は、まわりまで、
なにか腑に落ちない、淀んだ空気につつんでしまう。

たとえば、エライ人が壇上で話すようなときに、
たてまえだけを、えんえん聞かされることがある。

こういう場合、ほとんどの人が、
最後まで話を聞いてから、
どこかうそだよな、と気づくわけではない。
最初の2〜3分を聞いただけでもう、
あるいは、一声きいただけでもう、
その、うそっぽさを見抜いてしまう。

人にはうそを感じとる力がある。

特別な能力などなくても、
なにかどっかでうそをうそだと感じていて、
だから静かに傷ついている。

本当のことが言えない、聞けない。

そのことが、予想以上に、
人の活気を蝕んでいるように思えてならない。

みんななぜ、もっと、本当ことを言わないのだろうか?

言わないのか?
言えないのか?

そもそも「本当のこと」って何だろう?

本当のことを言うとは、
「ぶっちゃけ」ることだと思っている人がいる。

昔なら恥かしくて隠したようなプライバシーまでも、
聞かれてもいないのに、
赤裸々に披露する人がいる。

最近、打ちあけ話を、
自分から進んでしたい、という人が多いように思う。

あるいは、目に付いた相手の欠点とか、
自分のむかついた気分とか、
言いたいことを、言いたいときに、
言いたいまま「ぶっちゃけ」て、
それで、「本当のことが言えた」と思っている人も多い。

でも、それは、人の心を動かさないし、
深い内的な歓びもない。

これらは、忍耐力が薄れたために、
自分の中にあるものを、ためておけず、
ただタレ流しているのではないか?

「本当のことを言う」ということを甘く見ていると、
結局、「本当のこと」は何も言えずじまいになる。

本当のことを言うためには、
「考える」ことが必要なのだと思う。

人は「想い」を持つからだ。

たとえば、相手の欠点が見えたからといって、
「バカにバカと言って何が悪いの?
だって本当のことじゃない」とか、
「バカと言えない自分はいくじなしなんだろうか」とか、
人の「想い」は、そんなに安易なものなんだろうか?

人の想いは、もっと複雑で深いものだと私は思う。

相手に対する想いがあり、
相手にどうなってほしいかという願いがあり、
未来を考えたとき、どうなっていたいか?
という意志がかかわってくる。

だから、「問い」を立てて、
自分の内面に問いかけ、
自分の「想い」に近い言葉を引き出していく必要がある。

ワークショップでは、わずか、
1分足らずのスピーチをしてもらうために、
20もの問いで、考えてもらうことがある。

2人1組のインタビュー形式で、
その人の過去や現在、
人や社会との関係、そして未来に、
問いかけては引きだし、
問いかけては引きだし、を積み重ねていく。

そうして、考え、自分の想いを語っているうちに、
みんな次第に、
顔がかがやいてきて、活き活きとしてくる。

そこには、「自分はこのようなことを想っていたのか」
という発見があり、
時間や人との関係性の中に、
自分の本当の想いが浮かび上がっていく
晴れやかさがある。

そのようにして、引き出された言葉は、
いままで生きてきた自分と一致していて、
話す方にも、聞く方にも、痛快さがある。

本当のことを言うためには、
想いを引き出す「問い」、
そして「考える」作業が必要だ。

最後に、
「考える」という力を感じたメールを紹介したい。

人が、考えて、考えて、
本当に想っていることが書けたとき、
ただそれだけで、力を持つと思う。


<わたしの仕事>

このところ連載されている
「仕事」について思うことがあるので
少し長くなりそうですが、書けるだけ書かせて下さい。
お願いします。

私は専業主婦で、
小学1年生と7ヶ月のこどもの母親です。
8年前に結婚してから仕事という仕事はしていません。
大学を出て就職はしましたが、
その後転々と責任のうすい事務仕事を
契約社員や派遣社員という立場で、
所謂有名企業を選んで働いてきました。

だから自分で企画を立てたこともなければ
責任を取ることもなかったし
今思えば仕事とは言えないような仕事で食べていました。
でも同じ仕事をしている仲間うちの中では
一番でありたいと頑張ってもいました。

その日々のかたわら、
ずっと就職活動もしてはいたのです。
でも出版社で編集として働きたい、
というだけの動機ではどの面接も通りません。

経験のない人間が何をもってアピールすればいいのか
そもそも自分は何で編集をやりたいのか
やりたいからやりたいんであって
そこからどうアピールに結びつければいいのか
自分に与えられた仕事は完璧にこなす自信はあるけれど
どう言えばいいのか
絶対そういう仕事は得意だからやりたいというだけでは
説得力がなさすぎる
でも異動とかで編集の仕事ができるとは限らないわけだし
だったら何か見え透いたヨイショみたいなことを
言えばいいのかノとか。

もう堂々巡りで出口が見つからず、
それまでに得た、
雇い主からの良い評価による
妙な自信だけが一人歩きをして
こんなにデキる私を見抜けないなんてノ
わかっちゃいないぜまったくノ
などと半ば本気で面接官を恨んだものです。

流石に三十路も半ばを過ぎた今となっては
「そら、落ちるわな」と思うばかりですが。

でもあの頃はどうしたらいいのか全く分からなかったし、
どうしたらいいのかなんて誰も教えてくれませんでした。
対人ということになると私の精神年齢は
急激にコドモ並みになってしまい
面接で出てくる言葉は
「だってやりたいんだもん」
程度の自己紹介止まり。
幼稚でしたが、もがいてもがいて苦しんで、
頑張ってはいたのです。

今、私の仕事は主に母親業です。
敢えて「仕事」と呼びます。

小学1年生のこどもを毎日叱り倒しています。
時に自分でもわけがわからないほど
言葉で責め立てることがあり、
それがここしばらくずっと続いています。

だんだん何のためにこどもを叱っているのか
分からなくなってきました。
叱るために叱っているようです。
まるで叩きのめしているようです。
なぜ同じことばかりで叱られるのか、
こどものことが理解できなくなりました。

このままでは私もこどももいつか駄目になる、
何とかしなくてはと思っています。

私は「仕事」として母親業をとらえることにしました。

着地点は、どこか?
私はこどもをどんな子にしたいのか、
どんなふうになって欲しいのか?
叱ることは有効か?
叱られなければ何もできないこどもにしたいのか?

考えているうちに、少し見えてきたのは、
何と私は小学1年生のわが子に、
自分を分かってくれ!と言っていたのではないか
ということでした。

ママは忙しい、ママは頑張ってる、
ママがあなたくらいのときはこれくらいできた、
ママはママはママはノ「なのに、あんたときたら!」

他者としてのこどもを全く見ていなかったようなのです。
意識が自分にしか向いていなかったようなのです。
しかもそんなことにすら
自分で気づいていなかったようなのです。

母親業は責任重大な大仕事です。
綺麗ごとだけじゃすまされないし、
肉親だからお互い甘えも出てきます。

でも私のゴールは、
私のこどもを「どこへ出しても恥ずかしくない一人前のオトナ」
にすることなのです。

今日から仕事として取り組みたいと思います。
すこしづつでも。孤独でも。

(母親は、孤独です。
 夫と不仲なわけではありませんが、
 やっぱりこどもと近いのは母親だと思うのです)

     (読者 ももぷらむさんからのメール)





『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2004-09-08-WED
YAMADA
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