YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson209 あなたは最初からわかっていた


私たちは、インプットとアウトプットの、
アンバランスを生きている。

小さいころから、洗練された情報を
次から次へと、インプットされて育ってきた私たちは、
容量オーバーになっても、
もっともっとと、日々、新しい情報が書き込まれている。

一方で、その情報をアウトプットする道がない。

幼いころから、
考え出す、自分を表現することについて
トレーニングの機会が少ない。
就職活動になっていきなりアウトプットが
求められるものの、それ以前には、要求すらされない。

だから、わかっていても、出せない。

このアンバランスが
たえがたいほどになっている。
それは、いつなんどき何がおきてもおかしくないほどだ。

仕事シリーズは、まだ続くけれど、
今回はちょっとお休みして、このことを考えたい。

このアンバランスは、
生まれたときから、水泳のビデオを何千回と見て、
ものすごく水泳に詳しいけれど、
一回もプールに入ったことがない人にたとえられる。

その人は、プールに放り込まれたら、
当然、泳げず、あがくだろう。

その姿は、まわりの人には、
ただ、水泳というものを知らない素人にしかうつらない。

だから、その人をばかにしてかかって、
「水泳はこうやってやるんですよ、
バタ足はこういうものです」と、
まわりが扱えば、その人は傷つく。

なにしろ、その人は、
小さいころから、水泳のビデオや解説を
たくさん見てきて、
ストローク、息つぎ、足の角度、
水泳には、やたら詳しいのだから。

それでも泳げないという事実だけを見て、
まわりの人が、ばかにしてかかれば、その人は、
「なんで、まわりの人たちは、私に、
こんなわかりきった、くだらないことばかり言うんだろう。
水泳のことを知らないバカばかりだ」
と思うかもしれない。

水泳にやたら詳しいんだけど、泳げない。
何千曲も聞いているけれど、1曲もつくったことがない。
そんな人がたくさんいるのがいまの世の中だ。

だから単に、その人のアウトプットだけを見て、
できないから、わかっていないのだろうと思って接すると、
とんでもない失礼をしてしまうことがある。

その人からすれば、
「まわりは自分をわかってくれない」か、
「まわりはわかってない奴ばかり」かになってしまう。

同様に、いまの世の中には、わかっていても、
自分の考えを、
うまく書いたり、話したりできない人が多い。
私だってそう。大なり小なりみんなそうだ。
それは、実技だから、
実技をトレーニングしてこなかったら、
できないのは、あたりまえだ。

そういう人は、これから増えると思うし、
特にまだ社会に出て
もまれていない若い人には多いと思う。

でも、言葉や表情にあらわせないからといって、
その人が「それをわかっていない」わけでは決してない。
実はよくわかっている。

アウトプットのレベルをみて、
人の内面を判断してはいけない。

その奥には、何倍も深遠な、
その人がインプットしてきた世界がある。

それを心して接するようにしたいと、
いま、私は、あらためて思っている。

それは、春から学生を教えたり、
ふるさとでワークショップをやったりしながら、
あらたな感動をもって気づかされたことだ。

大学では、最後の講義で、
学生に、1分スピーチをやってもらった。

学生たちが、人前で話すのを嫌うとはわかっていたが、
やらなければならないと思った。
案の定、事前に学生から、苦情や不安が寄せられた。

「ズーニー先生、スピーチってまさか、
 あの壇上で、みんなの前でやるんですか?」
不安げに質問にきた女子学生に、そうだと言ったら、
300人教室の高い演台を見て、たおれそうな顔をしていた。

さすがに、ハードルが高すぎたかと、
当日まで悩んで私は、結局、
「壇上にあがってスピーチしなくていい、
 マイクをまわすから、
 自分の席で用意した原稿を読んでいい」
とハードルを下げた。

すると、なんと、学生からブーイングが起こったのだ。
「ズーニー先生、スピーチは、前に出てやらせてくれ!」
「俺はあの壇上にあがりたい、あそこで話させてくれ!」
と必死で訴えてきたのだ。

予想外の展開に、私は、驚き、
どこで話すか、学生の自由意志にまかせることにした。

トップバッターは、
あの質問に来て、壇上に上がると聞いて
たおれそうな顔をしていた女子学生だった。
ところが、彼女にマイクを渡すと、迷わず、
300人教室の高い演台に歩いていきスピーチをした。

次の学生も、そのまた次の学生も、
それまで、
顔もあげられない、人の目も見られないような
内気な学生もいたが、その学生も、
自分の意志で壇上にあがってスピーチをした。
感想には、「面白かったー!」と書いてあった。

結局、全員が、
自分の意志で壇上に上がってスピーチをした。

発表ごとに、拍手と歓声、しまいには、
スタンディングオベイションまで起きた。

大多数の学生の感想欄には、
「自分の意見が言えたー!」「聞いてもらえたー!」と、
表現した歓びが、まるでスポーツした後のように
爽快に綴られていた。

学生たちは、口では嫌と言いながらも、
身体は、切実に、アウトプットの機会を求めている。
それは、前期の講義のはしばしでも感じられたが、

あの「前に出してくれ!」と
ブーイングが起こったときには、
もう、生理的な反応のような気がした。
「貴重なアウトプットの機会を奪われてなるか」と。

それはそうだ。彼らは、これまでの人生の大半を、
そして、大学でも大半をインプットに費やしているのだ。
出口なく、容量オーバーのフロッピーに
書き込みだけをつづければ、いずれパンクする。

「出したいんだ!」と、身体から叫んでいるようだった。

学生たちは、自分をひらくことに一途だった。
以外に経験値が高く、また、この時代を反映してか、
心に傷をもった人が多かった。
講義の初日に出会ったときには、
予想さえしなかった内面を、
それぞれに「出して」見せてくれた。

一方、ふるさとでやったワークショップでは、
特に、田舎から来てくださった中高年の主婦の方々の
スピーチが感動的だった。

一連のワークをしたあと、
自分の過去、現在、未来という「主旋律」を伝える
自己紹介をやっていただいた。

田舎で生活しておられる主婦の方は、
農業があったり。たくさんの猫がいたり。
百歳をこえるご長寿のお姑さんの介護があったり。
離婚して、自分の手で、
息子さんを育ててこられた人がいたり。

家族があって、生活があって、歴史があった。

そして、私からみれば、ご家族に尽くし、なにひとつ、
自分勝手にはやってこれなかったと思える
主婦の方々の口から、意外な未来が語られた。

「私は、いままで、自分のために生きてきすぎたようだ。
 これからは、もっと
 世の中の役に立つようなことをしたい。」
「環境問題に関心がある。
 地域の環境のためになにかしたい。」
「そろそろビジネスをたちあげたい。」

人の中には、かけがえのないものがある。
それを信じているから、
表現サポートの仕事をしているのだが、
いざ表現されてみると、人の内面は、
毎回、毎回、予想をうらぎって素晴らしい。

表現されて出てきた、かけがえのないものに出会うたび、
それは、もともとその人の中にあったものだけど、
表現しなければ、だれにも理解されなかった。
私も決して気づくことができなかった。
あるのに、ない、と扱われていた、とを思うと、
たまらない気持ちになる。

そういう、かけがえなく、重いものが、
人の内面には宿っていると、
それを、畏れ謹んで、これからは人に接していこうと思う!




『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

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2004-08-04-WED

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