YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson198 初心


このコラムも今日から5年目に突入した。
ありがとう。
ほんとに、ありがとう!

コラムがスタートした、2000年5月17日を、
私が会社を辞めて、独立した節目、
Office Zoonie の開設日とした。

あれから、まる4年。

38歳で、自分の「意志」だけを抱いて、
あてもつてもなにもなく会社を辞め、
たった一人で教育界に漕ぎ出そうなんて、
我ながら、無茶な選択をしたものだ。

「死ぬか」と思った。

もちろん、カラダの死のことではない。
自分は2度と社会に活かされないのではないか、という、
「社会的な意味での存在の死」。
「アイデンティティの死」。

「志の死」。

会社を辞め、独りで漕ぎ出そうと
「意志」を持った瞬間から
それらの「死」はぴったりと身近によりそった。

それは、ものすごい「緊張」の連続を生んだ。
緊張は、ほんの息つぎもなく、こんなにくる日もくる日も
持続できるものかと、自分の体を疑ったほどだ。
同時に、ふりはらっても、ふりはらっても、もう、
お友だちになるしかないだけの量の「不安」を呼び寄せた。

だが、不思議と忌み嫌うような感覚ではなかった。

緊張に、自分の「潜在力」が、揺さぶられる。
芽を出す瞬間が、ときに、自分でもわかる気さえした。
眠った力が目覚め、磨がれている。

「昨日より今日、今日より明日の自分はもっといいぞ」
そういう「希望」があった。

「人が持つかけがえのない力を生かしたい」

という私の想いは、
「道」を塞がれるたびに、湧き上がり、あふれた。

若い人の教育をテーマにした媒体を見るたびに、
「自分は、これまで一生懸命若い人の教育をやってきた。
 なのに、どうして、自分は、この場にいないのか?
 なぜ、この経験を生かす場は得られないのか?」
その焦燥感は、痛みとも、憤りとも、耐え難く、
次の道への、叫びのような希求となっていた。

それは、場を与えられたとき、奔流し、
全身全霊の、いままで
自分でも見たことのない「言葉」を生んだ。
そこに、次に進む「道」ができていた。

あれから4年、私は、生きている。

ほぼ日と読者に出版の機会をいただいた最初の本
『伝わる・揺さぶる!文章を書く』も、ちょうど、
独立4周年のタイミングで、
増刷10刷のニュースが入った。
出版から3年目を迎えたいま、毎月元気に増刷されている。
大学で教科書としても採られ、
新刊におくれて、この本も、韓国で翻訳出版が決まった。
「文章の書き方の本」が、海外で翻訳されるのは、
非常に珍しいそうだ。日韓の学生が海をはさんで
この本を踏み台に、文章を交しあう日がくるかもしれない。

教育のシーンに、小さいけれど自分はいる。

大学では、90分3コマをいただき、
コミュニケーション基礎Cという「文章の書き方」と、
コミュニケーション基礎Bという「話し方」と、
「コミュニケーション論」を教えている。

インタビューワークを終えた学生のプリントに、
「あせっていたが集中し、
 自分の想いを思いきり相手にぶつけた。
 そうすると自然に
 自分の思っていることが言葉にできた。
 自分はそういうことは初めてだったので正直驚いた。」
とあった。
この学生の相手をした学生のプリントには、

「相手の話を聞いて心に響く部分もあった。
お互いに理解し合えたという実感があってよかった」
とあった。

社会人やプロに講義をしたり、ワークショップをしたり、
2004年にはいるころから、
「書く」ことより、「実際に教える」方が多くなっている。

講演は、細々と、でも、7〜80本はしたろうか。

いろんな人に、
もっと自分自身を表現してほしい、と考える。
人が、自分の内面を外に表す。
自分の生の声をあげることで、
自分の外の、人や社会とつながっていける。

自分の内面を引っぱり出すのが、
「考える」という作業であり、
それを人に伝えるのが、
話す・書くといった「表現技術」だ。

人の持つ、
「表現しようという動機」を引き起こすこと、そして、
自分の頭で「考える方法」と、
「表現技術」をサポートしたい、
という私の意志は、コツコツコツコツと実現しつつある。

このところ、
このコラムのテーマになっているものの1つが、
「選択」だと思う。

人生の岐路で、
どうすれば間違いのない「選択」ができるか?

あのときの、私の「選択」はまちがっていたのだろうか?

2000年、山田ズーニーが会社を辞めて、
独りで、教育をめざした選択は、正しかったのか?

というとき、これらの「問い」の中には、
道が二つ以上に分かれているとき、
どこかに、もともと正しい選択肢がある
という思想が含まれている。

だが、もともと正しい選択肢がどこかにある、
というのは、幻想ではないだろうか?

100歩ゆずって、
「もともと正しい選択肢」というものがあったとしよう、
でも、人が、あとから、
「私のあのときの選択は正しかったんだろうか?」
というときの、

「正しい選択」って何だろう?

私自身、4年間のうちに、何度か、
「ほんとに会社を辞めてしまってよかったのか?」
という問いが、よぎったことがある。

順調なときには、決してそんな問いはわかないのだ。
それは、必ず、うまく行っていないときに
わきあがってくる、というのがミソだ。

で、弱気になっている自分が、想い描いている、
「本当は正しかったのかもしれない
 もうひとつの選択肢」って、
どれほどのものか、解体してみると、
「こんな苦しさや、不安や孤独を経験しないで、
もっと楽に、すごくいい仕事ができて、
たちまちみんなに歓ばれて…」
というような、煎じ詰めれば、
「ラクしていい仕事がしたい」
という程度のものでしかなかった。
いかにも弱気なときに、私が抱きそうな幻想ではないか。

でも、ラクにするするっといい仕事ができて、
たちまちみんなに歓ばれ、
なんてことが、どこの世界にある?
万が一あったとしても、
そんな生活が1年もしないうちに、
私は、緩慢に腐っていくと想う。

この4年で発見したのは、
もともと正しい選択肢というものはなくて、

選択とは、何かを決断するまでの日々ではなく、
決断して動き出す瞬間をいうのでもでもなく、
選択とは、その後の日々でつくられる、ということだ。

「正しい選択がある」ではなく、
その後の日々を通して、「正しい選択にする」のだ。
正しい選択に、あとから自分の手でできるのだ。
だから、選択は未来に向かっている。

この4年間に、もうひとつ発見したのは、

人生には、つらくてつらくてしかたがない時期がある。

ということだ。
選択がまちがっているわけでもなく、
自分がなにか悪いわけでもなく、
新しい道に飛び込もうとしたときに、
必ず一定期間、つらい時期はある。
このことを知っておかないと、
しなくてもいい「後悔」を、することになる。

人は、うまくいっているとき、
「やっぱり、私の選択は正しかったわ」と言い、
うまくいかなくなってつらくなると、
「あのときの自分の選択は
 まちがっていたのだろうか?」
と言いがちだ。私もそういうパターンを持つ。

でもその思考パターンは、あたっているときもあるし、
外れているときもある。

例えば、私は、編集者から作り手へ、
会社員からフリーランスへ転向した。

よくよく納得して、自分の意志で辞めたにもかかわらず、
立ち上げの2年のつらさに、しばしば、
これは、何か、自分の誤った判断に対する報いだろうか?
という疑念がおこった。

すると、
ただでさえつらい状況で、さらに自信を失うような、
マイナスのスパイラルになっていく。

だが、どんなに自分が正しくても「つらさ」は起きる。
「つらさ」の中身を解体してみればわかることだ。

まず、経験と想いはあるのに、
なかなか活躍の場を与えられなかった焦燥感。
これは、いま思えば、
「社会にエントリーできないつらさ」だった。
自分は、それまでに、
フリーランスとして社会にエントリーした
経験はあるのか? と考えると、ない。
世の中に、そんな人のための既成のルートが
用意されているのか? というと、ない。
だから、つらいのはあたりまえで、
問題は、選択がどうの、自分が悪いのどうの、ではなく、
社会にエントリーする道を
どうやって探すか、つくるか、だった。

また、なかなか、思うものが書けない苦しみ。
これは、あたりまえで、自分はそれまでの人生、
「書き手」として生きてきたのか?
というと、そうではない。
新しい分野で、すぐにすぐ、うまくできないのは、
まったくあたりまえのことで、
選択うんぬんの問題ではない。

そして、孤独のつらさ。
なんていうんなら、最初から、フリーランスなんて
目指さなければいいわけで、
いい選択をしようが、自分が正しかろうが、
200人近い部署から、単身になれば、だれでも
孤独感が強まるのはあたりまえだ。

社会にエントリーする
→実力を磨いていいアウトプットができるようにする
→それによって、本当の理解者を一人ずつ得ていく、と、

一つ一つ段階を踏んでいくことでしか、問題は解決しない。
そして、そういう本物の問題解決には、時間がかかる。

だから、つらい時期があるのはあたりまえで、
あっていいのだ。
むしろ、未知に本物志向で進んでいることの
勲章だと思いたい。

先週、大学生からきたメールに、
私は、初心を呼びさまされる思いがした。


<選択はまちがってない、でも、不安は募り>

私は現在就職活動中の大学4年生です。
現在の私は不安という大きな穴に落ちています。

本命の企業の最終選考を受ける前に
内々定が出ている2社には返事をしなくてはなりません。
内々定の2社は辞退します。
それは次が最終選考である
3社の方が志望度が高いからです。

いま、この時点で就職活動を終わらせようと思えば
終わることができます。
残りの学生生活は
その日からエンジョイすることができます。
バイトをしてお金貯めて
旅行へ行って、遊んで、勉強もできる。
単位はほとんど取れているので、
学校に縛られることはなく、
とても自由な生活が待っています。
周りも少しずつ、
就職が決まり、焦るようにもなります。
このことだけを考えると、
今すぐにでも就職活動をやめたいです。

しかし、先のことを考えると、
やはり妥協せずに本命の企業に挑戦して、
悔いのないような就職活動がしたいのです。

この選択は決して間違っていないと胸を張って言えます。

もうおわかりかと思いますが、
3社落ちたらどうしようという不安です。
そして、受かる「自信」がないのです。
「不安」からくる「自信」の喪失。
選択は間違っていないが、不安は募り、自信はなくなる。
悪循環です。

私は毎日がとても辛いです。
私の場合は、間違いのない選択をしたはずなのに
「自信」がないのです。
そしていつまで就職活動を続けるのだろうかという
マイナス思考になってしまいます。

それでも輝いた未来にするための準備=辛さ
だと考え、まだまだ頑張ります。
(言葉にするのは簡単ですが、頑張ります)

私の状況を友達に話すと、
「就職活動はある意味賭けだね」と言います。
しかし、私は賭けに出たわけではありません。
前に進む道を選択したのです。

    (読者の大学4年生 マリエさんからのメール)


「選択」が「意志」になる。

マリエさんのメールにそう思った。
自分はどうして、この人のメールに引きつけられるのか?

同時に小さい自分が、会社を辞めて、
どうして今日まで生きてこられたか?
どうしてさまざまな人が、私に共感し、
機会を与えてくださったか? ということを考えた。

やはり、そこに強い「意志」の存在を感じるからだ。
「意志」が人を引き寄せていく。

会社を辞めるときの私は、教育への意志はあった。
しかし、会社を辞めて独り生き抜いていけるというほどの、
それほど強固な「意志」があったか、
というと、まったくNOだ。
明日からどうしようと、
緊張と怯えに皮膚はビリビリ痛かった。

そんな弱い自分が弱いまま、怯えながら、泣きながら、
しかし、前に進む「選択」をした。
その「選択」が、次を生きる「意志」を育んだのだ。
そして、意志あるところに、協力者は現われた。

選択が意志になる。

だから、どっちが有利か? どっちが自信があるか? 
正しいか? そんなことは、あまり問題ではなく、
むしろ、
「この選択によって、未来の自分をつくっていく」
くらいの勢いで、私は、選択に挑みつづけていきたい。

あなたのその選択は、次のどんな意志を育むだろうか?



『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

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2004-05-19-WED

YAMADA
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