YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

197 人はなぜ哀しみを抱いて生まれてくるのか?


ズーニーです。
まず、1通の読者のメールからお読みください。


<性哀説>

孤独って鏡に映った自分だと思っています。

どれだけすばやく動いても、
突然、意外な表情をしてみても、
フェイントをかけて、かわそうとしても、

同じタイミングで、
同じ力強さで、
ついてくる。

スピードも意外性も、
何もかもがお見通し。

性善説、性悪説ってありますよね。
学生の頃、何かの会話の流れで
「違う。性哀説だ」と主張したら
何事もなかったかのように流されてしまって、
「チクショウ」と思ったことがあります。

哀しさを宿していない人が、
人に優しくなれるはずありません。
孤独を避けている人のコミュニケーションには、
嫌らしさを感じる湿度があります。
「孤独」の捉え方を間違えてしまうと
「恋」や「就職」といった、
何かの対象に依存してしまうような気がします。

「自己実現」というものを考えるとき、
僕は「階段」をイメージします。
一段一段上がっていく。
理想を言えば、それはマイペースでありたい。
時には二段とばしをしてみたり、
疲れたから休んでみたり。

だけど、人によってはそれを
「どこでもドア」のように捉えている人もいるようです。
ノブをひねって軽く押すだけで
「新しい世界」を得られるとしても、
それって「手応え」のある世界なのかな、
と思ってしまいます。

僕が階段をのぼっているとして、
それはたったひとりの作業だけれども、
ふとまわりに目を凝らせば、
別の誰かが、やっぱり
たったひとりで階段をのぼっている。

そう意識できたとき、
「孤独」は「勇気」になりうる、
そう思っています。
       (読者 Aさんからのメール)



「性哀」ということばを聴いて、
以前、テレビで、作家の小川洋子さんが
出産のときの、赤ん坊の産声がくらい、
というようなことを言っていたのを想いだした。

この世に生まれたばかりの赤ちゃんの声は、
生まれてきた喜びに満ちあふれ、
あれは「喜びの声」だ、「明るい声」だ、
とみんな言っているせいか、
新鮮に響いた。

私は、産声を、なまで聴いたことがない。

だけど、その響きに、一抹の
せつなさ、哀しみを感じとった人がいたとすれば、
それは、とても私の腑に落ちる感じがした。

だって、生まれて最初にすることが「泣く」だもんな。
「笑う」ではない、「ぼうっとする」でもない。

自分の幼いころをふりかえって、もう、
「哀しみ」の感情はあったような気がする。

両親や姉の愛情にめぐまれて育った、
とくに何がつらいということはなかったが、
おばあちゃんのいる田舎に行って、夕方、
カナカナの声を聴いたり、夕風が、
稲をさわさわさわーっ、と吹き抜けるようなときに。

だれに教えられたのでもなく「哀しみ」を知っていた。

Aさんからのメールをもらって夕飯の買い物に出た。
まだ住み慣れていないこの街の
スーパーマーケットは、自分によそよそしい。

ふと、スーパーで買い物をしている一人一人の中に、
私がものごころついたときに感じたような
「哀しみ」が、
一人ひとつずつ、備わっているとイメージした。

不思議に懐かしいような、やすらぎを覚えた。

そのあと、やるせなさが突き上げてきた。
そんなの悲しすぎるよー!
人は、なんで、哀しみを抱いて生まれてくるんだろう?

よく、脳や生命のメカニズムの番組で、
赤ちゃんが、いかに、「生きる」ように
プリセットされているかを説いている。

なにか、意味があるのかもしれない。

さて、Aさんが言っている。
>「自己実現」というものを考えるとき、
>僕は「階段」をイメージします。
>一段一段上がっていく。

ということば。

別の読者、レイさんは、
>右足だしたら左足だしていくしかない
と表現している。

わたしたちは、
なにかトラブルが起きたとき、
「あのときも、そのまえのときも、
 あなたはこうだった……。」
と過去の不満を持ち出すようなことはないだろうか?

相手は、「いま、そんな過去の話をもちだすなよー」
というけれど。

非日常が起こったとき、
浮かび上がるのは、
私たちが、それまでの日常をどう生きてきたか、だ。

事件が起きて、それまでの日常が、バッサリととぎれ、
そこで、一気にわき起こり、眼前にさらされるのは、

自分が、それまでの一日一日をどう生き、
どう人と向かい合い、何を美しいとしてきたか、
ではないだろうか?

最近、いただいたメールで、
潔く、かっこいいな、
と思ったものを、もう1通紹介したい。


<目がさめる思い>

私は以前、3年間付き合っていた彼氏にふられました。
ふられた理由は相手の浮気でも、
私のことが嫌いになったからでもなくて、
私があまりにも彼にすべてをかけていたからです。
それが彼にはとても重いし、怖かったそうです。

大学3年生になっても就職活動せず、
4年生で始めたものの、
いまいちやりたいことがわからず、
結局決まらないまま卒業し、
実家に帰ることになりました。

でも不思議と「私には彼がいるから大丈夫」と、
どこかで思っていました。

なにが大丈夫なのでしょう?

ぜんぜん大丈夫ではありません。
それまで彼の好きな服を着て、
彼の好きな音楽を聴いて、
彼の気に入るようにしてきました。
その分私のことを好きでいてほしいと
勝手に思っていました。
私は自分を彼に合わすことで、自分を見失っていました。

気が付いたら自分が何者であるか、
自分が何をしたいのか、
まったくわからなくなっていました。

でも、気づきました。
私は自分で自分を表現することがまったくなかったんです。
いくら相手に合わせても、
自分がなければ理解を求めてもしょうがない。

きちんと就職できないまま、自分もわからないまま
私は非常勤嘱託という身分で働き始めました。

社会に出て目がさめる思いがしました。
こんなに大変なのかと。

自分で働いて生きていくということは本当におもしろい。
「生きる」実感がありました。
私は大学を卒業してから本当にやりたいことが
何かまったくわかりませんでした。

それは自分というものが理解できなかったからです。
でも社会にでて色々な人と接して働くことは、
常に自分を表現していかなければやっていけませんでした。
そのことで私は自分を以前より理解し、
少しずつやりたいことがわかってきました。

恋愛は良いことだと思います。でも自分は自分。
納得する生き方をしたいと本当に痛感しています。

今は毎日夢に向かって勉強する日々です。

これからもたくさんの人と出会って、泣いて笑って、
「生きて」いきたいです。
         (読者 Kさんからのメール)


私が、Kさんをかっこいいと思うのは、
自分で失敗と感じたことがあっても、
自分をきらいになっていないことだ。
「自分を表現しなかったからだ」という省察には、
「自分の中には、
 まだ表現されていない、よいものがある」
という、「信」のようなものが、感じとれる。

冒頭の、「性哀説」のAさんは、いま20代半ば、
就職で100社は落ちたというが、
私は、Aさんの年頃に、
こんな大事なことに気づけていたろうか?

Aさん、Kさんの、芯に、静かな「自信」の灯を見る。

階段は、わきにそれてもなく、まちがってもなく、
まっすぐ、
この「自信」に向けて編まれていたような気がする。

「こうありたい」と願う自分への階段は、
一本道ではない、
いくつも枝分かれして、迷路のようだ。

情報が増え、
その選択肢はあふれかえり、不安を増幅させる。

私が、いま、その中で生きる上で、
いちばんいけないな、と想っているのは、

自信を失うことだ。

道を間違ってもいいし、やり直しても、休んでもいい。
でも、なにか失敗をして、
根底から、自信を失うことがいちばんいけない。
根こそぎ失ってしまったところに、

「5日間コース30万円で、
 いままでロスした階段30段分が一気に
 とりもどせますよ」とか、
「こっちの階段が、絶対正しい方向です。
 まちがいありません。10段とばしでいけますよ。」
といった、誘惑に、自分をあけわたしてしまう。

でも、本当は、レイさんのいうように、
>右足だしたら左足だしていくしかない。

ここで言う「自信」とは、
「自分の言っていることが常に正しい」とか、
「絶対自分は、勝ちパターンに乗っていける」
という自信ではない。

自分は、この階段の主である。
最後まで、自分で決めて、
自分の足で歩いていっていいのだ。
それはいいことだ、という自信である。

Aさんから「性哀説」の
メールをもらった翌朝、目覚めてふっと、
「明るい方へ、まっすぐ進むためだよ」
ということばが浮かんだ。

私たちの誕生の瞬間が、バカ明るかったら、
私たちは、どうして、明るい方を目指せるのだろう?

こうこうと
1000ワットの光に毎日照らされているなかで、
いったいどうして、
光に対する自分のセンサーを磨けるというのだろうか?

逆に、真っ暗であれば、
どんな、細く、弱い光にも反応し、
その光に、まっすぐ、歩いていけるだろう。

光の差す方へ向かうようになる。

なんだ、「向日性」なら、自分のなかに、
もともと備わっているではないか。

孤独は、「人」に向かい、
暗さは、「光」へのセンサーを磨き、
私たちが、「哀しみ」を抱いて生まれてくるのは、

まっすぐ歓びをめざせ!

というメッセージなのだ。

あなたが今、まっすぐ歩いていっていい、
明るい方とは、どっちだろうか?


『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

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2004-05-12-WED

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