YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson192 途中で聞きたがる精神


「こんなことになる前に、
 何ではやく相談してくれなかったの?」

中堅社員として活躍している友人が、
後輩について、そう怒っていた。

なんでも後輩が、
仕事の報告・相談をしてこないそうなのだ。
どうしようもなくなってから、困ってやってくる。
そうなってからでは遅い。

「はやめはやめに相談を。」

私も会社にいたとき、
ずいぶんと後輩にそう言いふくめていた。
でも、今、自分でものを書くようになって、
まったく逆のことを、
よく、自分に言いきかすようになった。

途中で相談しても、
だれも助けることはできない。

失敗は、まっすぐ、とことん、やりきるまで。

たとえ失敗作になってしまったとしても、
作品を自分で書ききって完成させるまで、
他者はそこに関われないし、自分も次へ進めないのだと。

たぶん、そう思うようになったのは、
長い書きものを何度かしてみてのことだ。

長い書きものをしていると、
必ず一度は、自分がどこを歩いているのかわからない、
ひどく苦しい状態に突入する。

私は、そういう状況にはいったときは、
自分で、「よし!」と思うことにしている。

なぜなら、「予定調和」ではない、
未知の領域に足を踏み入れていることだから。

いままでやったことの焼き直しなら、
仕事は、つるつると、引っかかりようなく進む。
前後不覚になることはない。

だから、まったく新しいことをやるには、
ここをどうしてもくぐらなければいけないのだと、
未知に足をつっこんだ自分の勇気を、まず肯定する。

しかし、そこからが長い、

書いても書いても出口がいっこうにみつからない。
同じ一行を書くのにも、ふだんの何倍も疲れる。
気がつくと、
短い文章に7時間、8時間余裕でたっている。
完成までの道のりを思うと、疲労感に目の前が暗くなる。

「自分はいま悪い方向にいってるな」と思う。

過去の仕事のシーンでも、
こういう妙な疲れ方をするときは、
基本設計のなにかがおかしい。よじれている。
経験上、身体はそれを知っている。

でも、何を、どう間違えているのか、
自分では気づけない。
まだ、この方向への希望も捨てきれない。
他人の批評がほしい、と思うのはこういうときだ。

ところがこういうとき、編集者さんたちは私を助けない。

ふだん濃密なコミュニケーションをとってくださり、
深い理解を注いでくださる編集者さんたちも、
私が、こういう状態になったときばかりは、
軽々しく助け舟を出したり、方向づけたりはしない。
自由に泳がせておく、という感じだ。

ライフセーバーでも
おぼれていない人は、助けられないのだ。

沖へ沖へと泳いで行く人が、
ちょっと泳ぐたびに、
岸で見ているライフセーバーさんをふりかえり、
「あの、すいません、ちょっと相談なんですけど、
 こっちの方向にいったら、おぼれますかね?
 あっちの方向の方がいいですかね、おぼれますかね?」
とたずねてみたとしても、

その人がどういうところに泳ぎつこうとしているのか、
わからないことには、そこまでを
泳ぎきる体力があるのかどうかさえ判断できず、
途中では、なんとも言えない。

書きかけの原稿は、
それが新しい境地をめざすものであればあるほど、
どこにいこうとしているのか、
書き手さえも見えてないんだから、
書き上げて提出するまで、編集者さんも見えない。

お互いがお互いを信頼していればこそ、
編集者さんは、ここは自由に書かかせるしかないと思うし。
自分も、ここは自分の領域だ。
独り書ききるしかないと思う。

しかし、「浮上できないかも」と予感がただよう原稿は、
それだけに、挑戦意欲もかきたてられるのだけれど、
たびたび絶望的な気持ちになる。
おぼれかけては、また泳ぎと、
そうして、やたら膨大な労力と時間をかけて、それでも、
書き上げた原稿がいけてないことがある。

自分でいけてないとわかっているとき、

本当は、だれがどう言ってくれてもだめなのだが、
でも、いじましくも、
「もしかしたら、編集者さん的には、大絶賛?」
と藁をもすがるような願望をいだいてしまう。

しかし、編集者さんの反応を見て、
いけていなかったことが決定的になる。

そうなったらもう、
この方向に出口はないと受け入れるしかない。
だれに、なんと言われるより、自分で納得感がある。

それで、一気に解決の糸口がつかめ、となればいいのだが。
なかなかそうはいかない。
そこで、あっさり気づくくらいなら、
もともと新しいことなどやってはいないのかもしれない。

そこから、試行錯誤がはじまる。

もともと、基本設計がどっかおかしいとわかった原稿を、
抜本的な解決策がみつからないまま改作するので、
ゆきづまったときの徒労感はさらに深くなる。
自信がどんどん失われていくのもこういうときだ。

それでも、
自分の持てるすべてで次の完成を目指すしかない。

過去の書きものでは、こういう状態で、2度直して、
だいぶよくなって、それでも浮上できなかったことがある。

精魂つきはてるというか、自分でやれることは全部やって
もう、なにかにひざまづくような感覚だ。
本当に「他者」の存在を、心から謙虚に、切実に
必要とするのは、そういうときだ。

そのとき、編集者さんが、本当に絶妙なタイミングで、
私に、「言葉」を投げてひっぱりあげてくださった。

ライフセーバーにたとえれば、
「こいつ泳ぎきれるかな? 沈むかな?」とずっと見てて、
「あ、とうとう、おぼれた!」
という瞬間、ぱっと潜って、
ぱっと引っぱりあげてくださった感じだった。

引っぱりあげるタイミングがそれより早かったら、
私は、まだ、その路線に望みを捨てきれず、
自分の準備ができず、謙虚には聞けなかったかもしれない。

自分の全力を作品として提出したとき、
そこに、はじめて「他者」が関わる余地、
受け入れる余地が生まれるのだと思った。

編集者さんは、そのタイミングを逃さなかったし、
その手並みも本当に見事だった。
自分がそこまでしないと、
プロの技には出会えないのだと思う。

経験的に、浮上できない回路にはまるとき、
私は、そのテーマのまるで完成事典のようなものを
つくろうとしていることが多い。
そのテーマについて、
重要なことは、すべて網羅したいのだ。
そのテーマの不動の結論を
打ち出してやろうとしているのだ。
結果、書くほうも、読むほうも、
しんどいものになっていく。

それは、自分の身の丈を越えた、
読者不在の、「欲」である。

読者は、別にテーマを網羅してほしいとは思っておらず、
テーマへの不動の結論などあろうはずはなく、
たとえあったとしても、それを私に、押し付けられたら、
拒否感の方が強くなることも、多いんじゃないだろうか。

読者の方は、そのテーマへの有効な問いを共有したり、
テーマを探求し、発見していく過程を楽しんだり、
もっと、テーマに対し、自分の中をかきたててくれたり、
読後、そのテーマに
さらに向かう動機を引き出してくれるものを、
臨んでいることも多いんじゃないだろうか。

自分を覆っていた霧が晴れたあとで
今回はそんなことを思った。

「はやめ、はやめに相談を」

それは、「受験勉強」とか、
「標準化が進んだ業務」とか、
ゴールがはっきりし、
そこに至るプロセスもマニュアル化され、
その道の先輩が存在するところでは、やっぱり有効だ。
新入社員の人も報告・相談はまめにやったほうがいい。

でもそれは、
独自の、新しいものを生むときも、有効だろうか?

創作の世界でも、まだ作品を書き上げてもみないうちから、
途中であれこれと
助言を求めたがる人が近ごろ多いのだそうだ。
その不安な気持ちはよくわかる。

でも、たとえ失敗作になったとしても、
自分が目指した境地まで、
泳ぎきってみる過程は無駄だろうか?

だとしたら無駄を省き、
効率をあげ、おぼれないルートを選んで、
目指しているのは、「どこ」なのだろうか?

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2004-04-07-WED

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