YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson 176 ひらけ!

「やりたいことがみつからない」
そんな時代の問いについて、
3年前、私の先輩がこう言った。

<自分が好きなことが必ずどこかにあって、
 自分がそれにふさわしい才能を持ってるっていうふうに
 思い込んでしまった段階から、なにかこう、
 「他者」とのつながりを断ち切ってしまうようなところも
 あるとおもうの。>

これを先週とりあげたところ、
通常の倍、メールをいただきました。

この言葉、ピンとくる人は、すごくピンとくる。
こない人は、いっこうに飲み込めない、
と反応はわかれました。

うち3通、
とてもピンときた人、
何かを感じた人、
消化不良の人、
のメールをまず、一気に紹介します。

<卒業をひかえた大学生からのメール>

現在、大学5年で、一応就職も決まった東京都在住、
上野と申します。

前回のコラム「Lesson 175 自分の才能はどこにある?」
は、特に興味深く読ませていただきました。

<自分が好きなことが必ずどこかにあって、
 自分がそれにふさわしい才能を持ってるっていうふうに
 思い込んでしまった段階から、なにかこう、
 「他者」とのつながりを断ち切ってしまうようなところも
 あるとおもうの。>

と言う下りが非常に印象的で、
言っている事がよく分かる気がしました。
最近私は、

〈他者、あるいは世界を通じてしか
 自分を鍛える事はできないのではないか〉

〈自分にこだわったり、とにかく掘り下げたりすることは
 案外何も生まないのではないか〉

と言う事を思っています。
例え職人のような一人仕事の分野であっても、
伝統やお客さんの存在と深く関わる事を通じて、
また、素材や、
なまなかなことでは思い通りに動いてくれない
自分の身体に対してコミットしていく事を通じて
職人としての“自分”が作られ、
鍛えられていくのだと思います。

まして、積極的に人と関わる仕事をしようと思う場合は、
生の自分自身の中に“自分”はないと思うのです。
自分自身に言い聞かせる「言葉」すらも
自分が発明したわけではなく、
元からあったわけですから。

つまり、
対象を自分の意志が
リードしていっているように思えるけれど
実は深い所では逆なのではないか、ということです。

「自分が好きなことが必ずどこかにあって、
 自分がそれにふさわしい才能を持ってる」
というのは、ある種とてもイノセントな世界観で、
自分を励ます
素晴らしい考え方のように一見思えるのですが、
実は世界に対して
“閉じてしまっている”状態なのではないか
と思うのです。

例えば子供が持つ夢と言うのは、狭い視野の中で、
自分の限られた経験世界の中だけで空想した事だから、
現実と大きくずれている事が多いですよね?

それと同じような事ではないかと思うのです。
子供の場合は育つ力が強いから、
どんどん色々な経験をして、
それを吸収して行く事で、
柔軟に世界と向き合う事ができる。

でも大人はなまじ経験やプライドがある分、そうは行かず、
その時点での自分の世界観と、
そこから生まれるものにこだわってしまう。
自分自身に、囚われてしまう。

そういう“閉じている状態”というのは、
極端な言い方ですが

“自分
(所属するカルチャーや、既に知っている事なども含めて)
に対してしか興味の無い状態”

だと思うのです。
もしその状態のまま前に進めたとしても、
それは何処まで行っても自分、自分、自分、しかない。

だから山田さんが
<「思い通り」に選べなかった道が、
まっすぐに「本望」に通じている。>
と仰ったのは、逆に思い通りでなかったからこそ、
世界に対して自分が“開かれた”状態になって、
そこに感動が生まれたのではないかと思います。
       (読者 上野さんからのメール)


<就職 → 迷い → いま>

わたしは小さいときから、自分では何も考えず、
まわりの人に甘えて、
まわりの人の言うとおりに生きてきました。
学校の勉強だけはしっかりやり、
大学まではスムーズに進みました。

そして就職活動のとき、就職先がみつかりませんでした。

いろいろ原因はあると思いますが、
やっぱりやりたいことが無かったからだと思います。
恥ずかしながら、
そんなこと考えたことがありませんでした。
自分には何も無く、社会には必要とされない存在、
そう実感しました。

初めての大きな失望でした。

それでも就職だけはと必死に勉強し、
大変失礼な話なんですが、
なんとか公務員になることはできました。
しかし、やる気は無く、
生きた心地も無く、夢や希望も無く、
そして、体重は激減、
女性としての機能はストップしました。
当然の報いですが、ここからが長かった。

程度のひどい更年期障害の症状が続きました。
何をやってもたのしくない、
おもしろくない、うまくいかない。
自分には何も無い、何の価値も無い。
どこで何をしても、それがついてまわりました。

心のどこかでは、腐ってはいけない、
必ず乗り越えられると思っていましたが、
でもやっぱり、つらかった。

心とからだの悪循環。
頭で正気を保つのもぎりぎり。
いろいろ模索しましたが、自分は何がしたいのか、
何をすればいいのか、
答えは出ないままでした。

そうこうするうちに5年が経ち、
大学のときから10年付き合っている彼と
結婚することになりました。
正直、答えが出せないままの結婚を
望んではいなかったのですが。

今、結婚して約10ヶ月、
なぜかからだはほぼ完全に回復しつつあります。
同時に、心も回復してきているようです。

なぜなら、まわりのすばらしい方々のメッセージが、
ほんとうに心とからだにしみるからです。

「Lesson 175 自分の才能はどこにある?」で、
就職に悩む読者の方に勝手ながら自分を映し、
養老さんの考えを理解することができ、
そして、ズーニ−さんの先輩の言葉に
心のかたまりがとけていきます。

わたしの心はだんだん熱を帯び、
膨らんでいっているような気がします。
やっと少し解放された、素直になれた気がします。

瞬間、いろんなことがこみ上げてきました。
頭ではわからないけれど、
心とからだは何か答えの手がかりをみつけたんだと、

ずっと夫は一緒にいてくれたんだと。

きっといままでも、わたしのまわりには
素敵な方々がたくさんいたと思います。
でも、わたしのほうで受信できず、
しかもそのひとを傷つけていたかもしれません。
きっと夫も傷つけていたでしょう。

人との関わりを放棄し、思いやることもできずに、
自分のしたいことなんて、
たとえあったとしても、それがなんなんでしょう。

結局未だ自分のしたいことは見つかっていません。
だけど、いまは生きててたのしいです。

これからは、自分のまいた種を少しずつ拾いながら
生きていこうと思います。
         (読者 餅さんからのメール)


<まだ、自分が、自分が、からのがれられない>

「Lesson 175 自分の才能はどこにある?」
難しかったです。

天才の話も、能力や才能の話、
わかるような、わからないような。
すいません。

考えた結果
「他者に認められ、理解される」
そこではじめて<その人のした「何か」(やりたいこと)
は達成された>のではないか
という意味かと思いました。

そして、「やりたいこと」とは、
自分は何を人に認めてもらいたいか、
何を社会に、世の中に貢献したいか、
ということでしょうか。
書きながらもちょっと自信がない答えです。

まだ「自分が自分が」からのがれられない気がします。
それは私の根本が「何かをしてあげたい」より
「認めてもらいたい」が強いからだと思います。

私は、「今まで自分が元気をもらったように。
自分も誰かを元気にする本を残したい」と思っています。

でも、それが本心かというと、
「私の言葉で元気になった?なった?」とか、
「有名になりたい」
というもののような気もしてなりません。

つまり自己満足したい。という願望。
どこかに、えーい,ここから一気に飛び出したいという
気があるような気がして(いや、ある。確実に。笑)
まいったなあ、と思いました。

他人のおせっかいとか、よくみせたいんだな自分のこと、
という感覚は人に伝わりやすいものです。

もう少し、「元気にさせる」ためのもととなる
「元気になる」ことについて考えてみたいと思います。
まずは、自分が元気になる方法を
たくさんみつけようと思います。
         (読者 Eさんからのメール)


ふたたび、ズーニーです。

私も3年前、先輩の言葉が消化できなかった。
だからラストのEさんの、その感じが
とってもよくわかるのです。
そして、3年前のそのとき、実は、
消化できない言葉が、もうひとつありました。

だから、それを、大学生の上野さんのメールに
見つけたときは、衝撃でした。

>>山田さんが
思い通りに選べなかった道が、
まっすぐに本望に通じている。
と仰ったのは、逆に思い通りでなかったからこそ、
「世界に対して自分が"開かれた"状態になって、」
そこに感動が生まれたのではないかと思います。>>


この「ひらく」という言葉、
やはり3年前、先輩がしきりに言っていたのです。
「自分をひらく」と。

「自分をひらかなければ、
ありのままを、ありのままに受け取ることなんてできない」と。

しかし、3年前の私には、
この「ひらく」という言葉も消化できず、
消化できないから、自分を開いてみようもなかったのです。

それからの3年間は、
ただ、ただ、苦しかった。
だから、餅さんのメールのここを読んで、

>>人との関わりを放棄し、思いやることもできずに、
自分のしたいことなんて、
たとえあったとしても、それがなんなんでしょう。
結局未だ自分のしたいことは見つかっていません。
だけど、いまは生きててたのしいです。>>


涙がでそうになりました、
いかん!と抑えましたが、感動しています。

したいことなんか、それがなんだ、生きてる!

私もささやかでも、そう思えるくらい、
「生きる」という実感に、コツンと手がさわった3年でした。

現実の厳しさは、
たびたび、自分の存在意義を、
いや、それを問う、わずかな心のすき間さえ、
根こそぎさらっていきそうになりました。
だから、餅さんのメールの、ここがしみます。

>>自分には何も無い、何の価値も無い。
どこで何をしても、それがついてまわりました。
心のどこかでは、腐ってはいけない、
必ず乗り越えられると思っていましたが、
でもやっぱり、つらかった。>>


そして、やっぱりこのつらさをくぐったことがよかった。
それが、人に対して、他者に対して、
自分を開くのに
必要なプロセスだったのではないかと想います。

3年間、ただ、ただ、くるしかった。
しかし、それが、自分を「ひらく」ということだったと、
「ひらいていたのだ」と、
大学生の上野さんに教えられました。

上野さんと同じように、卒論真っ最中の学生である
読者の長門さんも、冒頭の先輩の言葉について、
「私には、先を読まずともこの言葉が理解できました。
そして、心の奥に思いっ切り、ズシーン!ときました。」
と適確な理解を寄せてくれました。

そして、やはり、この「自分をひらく」ということを、
「こもるな!」という表現で、伝えてきてくれました。

卒業をひかえた大学生は、
就職活動、卒論を「書く」という行為を通じ、
他者と自分の関係を考えずにはおられない人たちです。
私は、今回、そこに耳を澄まし、
あらためて、こう、教えられました。
やりたいことの問いにつかまったら、

こもるな! ひらけ!




『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2003-12-10-THU

YAMADA
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