YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson153 優しさの芽生え


私は、ここにコラムを書いて3年になる。
ここへきて、浮上している疑問は、

批判は人を育てないのではないか?

ということだ。いまも迷っている。
企業で編集をしていたころ、
読者にものすごい量のアンケートを取ったり、
こちらから読者に直接ヒアリングしていた。
そこで、読者から受ける「批判」は、
痛いけれど、仕事を伸ばしていくのに必要不可欠のものだ。
それは、今でも必要だと思う。

で、それを、人間にもあてはめて、
「批判」は必要だ。自分にも、人にも。
自分では気づくことのできない自分のゆがみを
他人の目から指摘してもらえる。
私は、そう思っていた。

だから、ここにコラムを書きはじめるとき、
「どんなひどいメールがきても、
必ず私に転送してください。」とお願いした。
覚悟の上で、自分をとりまく現実を引き受けようと思った。

実際はじまってみたら、
非常に数は少ないが、批判メールはごくたまにあった。
メールボックスを開けたとたんに、
ずん、と、自分の体の中に、
鉛のインクが広がる。

このいやな感じは、3年たった今も慣れない。
最初のころは、丸一日、悔しさが消えず、涙も出てきた。

しかし、私は、自分でもおかしいほど、
批判メールから逃げないで、目をそらさないで、
真っ正直に向かい合っていたと思う。

それは、身体に感じる、この鉛色の痛みが、
何か自分を成長させてくれるに違いない。
という信念があったからだと思う。

このとき、プロの作家さんから
「気にするな」というアドバイスを何度もいただいたが
実験精神旺盛な私は、自分で試すまで、
耳をかさなかった。

まだ鮮血がにじむ傷口に、塩を刷り込むように、
なぜ、この人の言っていることに自分は腹が立つか、
と考えたり、
それは、自分のどのような欠点からくるか、
どう改めるべきか、と、ほんとうに真面目に考えた。

3周年がきたとき、
ふと、頭に次の問いが浮かんだ。

はたして批判メールは、私を育てたか?

答えは、NOだった。
拍子抜けするくらい、何も生んでいない。
これは、自分にとって予想外の結果だった。
そして、これを書くと反発する人は多いと思うが、
批判メールの内容は、ほんとうにつまらなかった。
これを言うのに3年かかった。
つまらないと言えば、大半の人は、
私が、自分の欠点や現実から逃げるために、
自分への批判をダウンサイズしていると思うだろう。
でもそうではない。ほんとにそうでなく。

あとから考えると、誤読だったり、
視野が狭かったり、一方的だったり、
論点が平板だったり、根拠がなかったり。
どうして、こういうメールに、
長時間、まじめにとっくみあったのか、と思う。

それは、時間の無駄ですむロスではなかった。
いやなストレスを溜め込むし、
せっかくよい問題提起のあるメールをくださっている読者と
はればれと向かい合えない。
つまり、今日を生きるのに遅れる。

もっともロスだとおもったのが、
数日間、「自信」を失うこと。
これが本当にロスだった。
その間、新しいアイデアを積極的に試していこう
という勇気が縮こまるし、
感情的な抵抗があって、
みずみずしい発想自体がわいてこない。

私にとって、この3年間、
批判メールは、不毛な、しかし、とても嫌な感情的抵抗を
生み、アイデアを停滞させ、行動力を鈍らせただけだった。
批判メールを送った人が悪いのでなく、
それで成長をという甘い期待を抱いた自分が
何か決定的に勘違いをしていたように思う。

自分を塗り変えるほどの批判は、
やはり苦労して、自ら求めないと得られないのではないか?

(ここで言う「批判メール」とは、
 事実の間違いなどの「訂正」は含まない。
 私は別の考えをもっているという「異論」も含まない。
 また、アンケートなど、相手の求めに応じ、
 互いの「了解」のもとに行われる批判は含まない)

一方で、テーマに対する、その人自身の経験・
見方・考えを書いたメールは、
多様で、次のコラムのアイデアを生んだり、
実際、このコラムに何度も読者メールを
掲載しているので、それが、どんなに面白いかは
言うまでもない。

本当に自信を失い、
もうあと一押しで、私がつぶれる、というとき、決まって、
あたたかいメールが
ひょいと1通きて、
その1通で先につなげてもらってここまできた。
優しさは、多くを生み、多くを育てた。

わたしは、いままで、
言いにくいことでも、ずばっと言ってあげることが、
相手の成長にとって必要だと思ってきた。
ある種、自分が憎まれ役になってでも
相手のためにとがんばっていたところがあった。

それが、ここへきて揺らいでいる。

相手の成長のためと、きついことを言っていた自分は
「なに様」だったんだとさえ思えてくる。

そう思う理由が二つある。

ひとつは、私が、企業という組織をやめ、
いま、個人で仕事をしていることも関係していると思う。
ただでさえ、今、生きてく上での選択を
なにもかも、「個人」が背負わなくてはいけない時代だ。
その上、仕事上のすべての選択と責任も、自分個人に
のしかかってくる。

何が正しいのか? 何が間違っているのか?
みんな、揺らぎ、試し、失敗しながら、進んでいる。
こういうとき、新しいアイデアを実行していく勇気ある人を
励まさないと、結局自分も、ゆきづまる。

そして、人間である以上、
永遠の右肩あがりというのはありえない。
一ついいアイデアを出した人が、次は、ひどいのを
3つ続けて出すかもしれない。
でも、ひどいアイデアでも、その人が、出して、出して、
出し切って、でないと次に進めないし、
進んでもらわないと、結局はみんなも困る。

その人は4つ目にいいアイデアを出すかもしれない。
しかし、3つの悪いアイデアのときに、
みんながコテンパンにやって、
その人の自信を潰してしまったら、次はない。

そして、もうひとつ、批判は結構だれにでもできる
のではないか? ということ。自分がしなくても。

批判がたやすくないというのは、それによって
相手から嫌われたりする、心情面、人間関係のことだろう。
批判的に観ること自体は、易しい。
まるい円のようなものを想像して、
相手に足りないものを指摘すればよいのだ。
相手が、明るさが大切と言えば、
いいや、暗さも大切だ、と言えばいい。
明らかに、まちがっているものに、批判、
面白くないものに、つまらん、
自分と違うものに、自分は違うぞ、
と思う発想自体は、そんなに新鮮なことではない。
言うのに勇気がいるだけで、
もしかしたら、こどもでもだれでも、思うことで、
放っておいてもいつか気づくかもしれない。
本人も、うすうす、気づいているかもしれない。

しかし、「優しさ」を示そうとすれば、
かなり、高度な発想力が求められると思う。

自分と違うものに→ちがう、ではなく優しさを、
間違っているものに→批判、ではなく優しさを、
示そうと思ったら、いくつかの発想がいる。経験もいる。
批判する人が気づくことは、当然気づいていて、その先、
相手は、なぜ、こんな間違ったことをしているのかとか、
そのことが自分たちにどういう意味をもっているかとか。

そして今、欠点が目立ったり、
問題がある相手を、
未来に向かってどう生かすか、
というビジョンが求められる。

批判しなきゃ、相手は間違いに気づけないじゃないか!
という意見は当然あると思う。でも
言いにくいことを
ズバッと指摘してやったら相手が育つとか、
人を生かすとは、そんな単純なことではないように思う。
批判しなくても、
現実はこんなに厳しく日々人を打ってくれている。

厳しくやってきた自分が揺らいでいる。
「優しさ」こそ、いま、
人を生かすのに有効ではないだろうか?




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

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2003-06-18-WED

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