YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson151 悩みはありきたり、実現は無限


「いつの時代でも、同じような人がいて、
 同じような関係性が生まれ、同じように人は悩む」

この美大生の言葉を糸口にした先週のコラムに、
読者の方からこんなおたよりをいただいた。


<悩みはありきたり、実現は無限>

セラピーの仕事を通じて感じているのは、
人の悩みのパターンは10通りもないんじゃないか?
ということです。

本当に同じような反応をしてしまう。
人間は反射的にパターンを繰り返すように作られている
存在なのでしょうね。

ところが、癒されて、ストレスが解放されると
人は、無限の可能性を発揮します。
人によって千差万別。選ぶ未来が違うのです。
想像する未来がバラエティ豊かなのです。

「なんで私が悪いのだろうか?」
という問いに、似たような答えが帰ってくるでしょう。

「どうしたらできるのだろうか?」
という問いには、みんな違う答えが帰ってくるでしょう。

良い、悪いって論じている時は、自分に対して
答えをださない言い訳にすぎないのかもしれませんね。

                   (まあちゃん)



がーーーーん!
これを読んだ朝から、ものすごくショックを受けた。
目の前が「明るく」なるショックだった。

興奮さめやらぬうち、もう1通おたよりが届いた。


<前のめりの解決、原因は後から>

私は根が単純なせいか、
何かピンチやよくないことがあったときに、
原因は分かれば参考程度にし、

どうしたら解決できるのか、前へ進めるのか、
を考えることが多いです。

原因追究の暇もなくて、極端な話、
物事が済んでから原因がわかることもあります。

(しげ)



まず原因究明ありき、だと、
原因に一番近いとこに、「人」がいる。
それが、自分であっても、他人であっても、
この、「人」の感情に触ってしまう。
感情的な抵抗にあい、それによってまた感情的な抵抗がわき、
どこへいきたいのか、
がわからなくなってしまうと、しげさんは言う。

この順番すごく、しっくりくる。

わたしは、この3年、かなり「ものを書く生活」だった。
読んだ人からでも、編集者さんからでも、
まず批判ありき、まず原因究明ありきのダメ出しは、
私を育てなかった。

あるとき、とても素直に聞けた「赤入れ」があった。
原稿が直され、わたしの欠点が指摘されているというのに、
わたしは、身体が調律され、
心地良い調べを奏ではじめる予感のような、
芯から気持ちよい気分になった。
なぜだろうか?

その編集者さんには、一冊の完全なビジョンがあったからだ。

この一冊をどうしたいか?
「それを山田さんに押し付ける気持ちはまったくないが、
編集者として、私なら、この一冊をこう編み上げたい。」
という明確な意志、本の最終形を完璧に自分の中に持っていた。
その上で、そのビジョンを「サンドバック」だと私に差し出した。
「どうとでもこれをたたき、踏み越えて行ってください」と。

だから、私もとても自由になれた。
そうか、

まず原因究明ありきのやり方だと、
ビジョンがないまま「人」を批判することになる。
それが問題なのだ。

必要なのは、明確なビジョン。
今から未来に向け自分はどうしたいか?
つまり「意志」、だ。

もう1通、読者のメールを読んでほしい。
読む人によっては誤解されることもあるかと思ったが、
読む人の理解力を信じて、来たままを載せてみる。

<「人間関係」とは、ツールに過ぎない>

「人間関係」とは、ツールに過ぎないのでは。
何かを成し遂げる為の道具の一つに過ぎないのでは。
しかし、「人間関係」はツールであっても、
「人間」はツールではない、決して。

「人間関係」とは、
「何か」の為に集ったヒト々々が
「人間」のある一面を、その目的の為に拠出して、
出来たモノに過ぎない。

「人間関係」が問題になるということは、
ツール、手段に過ぎないものが
目的化してしまっているからだろう。

そして、「人間関係」と「人間」の混同が
より、問題を複雑にしてしまう。
「人間関係」の在り方がおかしいのであって、
それに関わる「人間」がおかしいのではない。

但、「人間関係」は一人では造れないので、
例え自分が平静でもおかしくなる可能性を
「人間関係」は常に秘めている。

しかし、第三者的、
全知全能のジャッジマンが存在しないかぎり
その白黒に時間を取られるのは、不毛だ。

目的に向かって、進んでいるのであれば、別にイイではないか。
「人間関係」がおかしくなっていても。

やっぱり、いつもと同じ結論。
「己のベクトルをよりクリアにするしかない。」
                      
                     (森 智貴)




これを読んで、反射的に想い出したのは、
ピカソだ。

ピカソは、青の絵の具がないとき、
平然と赤の絵の具で代用した。
ピカソは、自分が何を描きたいか、
恐るべき、激しいビジョンを持っていて、
決して自分のビジョンに足踏みしない。

色は手段に過ぎない、目的ではない。

ビジョンというか、自分がどこへ行きたいか明確に
見えている人はこんなにも自由なんだ、と、
わたしは、その巨大な自由に打ちひしがれた。
さらにピカソはこう言う。

「私は、すべてのものを好き勝手に画面に置く。

 果物の籠とあわないからといって
 好きな金髪娘を画面からオミットするような絵描き、

 あるいはまた絨毯と調子が合うために、
 好きでもない林檎を常に描かねばならないというような
 絵描きの運命は何と惨めなものだろう。

 私は気に入ったものは全部、
 絵の中に描き入れる。

 描かれたものには気の毒だが、
 互いによろしくやってもらう他はない。」
           
(『青春ピカソ』岡本太郎著から)


人の関係というものは、
キャンパスの中に置かれてしまった、
金髪娘や、馬や、カーテンの関係
のようなものかもしれない。

わたしたちは、好むと好まざるとに関わらず、
ピカソの手で、このキャンパスに刻まれてしまった。
好きな奴、きらいな奴、さまざまにキャンパスに描かれ、
あとは、めいめいに、よろしくやってもらう他はない、
のかもしれない。

「描かれたものには気の毒だが、
互いによろしくやってもらう他はない。」


悩みはありきたり、実現は無限

悩みよりも、人間関係よりも、
それよりも、何よりも、

あなたがゆずれないものは?




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

2003-06-11-WED

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