YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson148 ごめんの向こう側


人の心を傷つけてしまった……。

ってこれ、自分が傷つくより痛い。
わたしも、しょっちゅう。
いっぺん、でっかいのをやったことがある。

そのときは、岡山弁でいうところの、
「うちが、でぇれぇ、わりぃ〜!(私がとても悪い)」
という感じで、もう、心血だらけ。
それ、自分でひっかきまわしてかさぶたになってるから、
もう、だれの、どんな言葉も、心に入ってこなかった。

そのとき、ほんとにたった1曲だけ、
かさぶたを通過して心に入ってくる歌があった。

矢野顕子さんの[The Stew]という曲で、
歌詞を書けないのが残念だけど
(ジャスラックさん恐いです)
主人公の、たぶん誰かに深く傷つけられた少年が、
こんな意味のことを言うのだ。

「わたしの傷を見るな、わたしに謝るな。」

え? と聴きなおした。ふつう、
わたしの傷を見ろ! わたしに謝れ! だ。
ちまたのケンカでも、

「ほら! ちゃんとこっち(私)を見なさいよ!
わたしは、あなたのせいで、
こんなに、こんなに深―く傷ついたのよ!
あやまってよ! 何とか言ってよ!」
こんなシーンで、もし自分が傷つけてしまった相手から、

「謝るな!」

といわれたら、「お、とっと、と…?」となる。
この歌が、人の心を傷つけてしまった自分の心に、
どうしてこんなに染みたのか、
実のところ、いまでも理屈で説明できない。
それでも、心から血を出し痛んでいたわたしの身体は、
この言葉の意味をよーくわかっていたような気がする。

まわり全部がうそっぱちと崩れていくなかで、
(そりゃあそうだ、自分で自分がうそっぱちじゃねぇか!
と信じられなくなっているのだから)
この言葉だけがやけに身体に染みとおり、
リピートをかけて何百回となく聞いていた。

最初は、この歌詞のところにくると、
自分が傷つけてしまった人のことを想い、
ぽろぽろ、ぽろぽろ、涙が畳に落ちた。
やがて、からだの芯に力が宿った。
2年はかかったなあ。

それでも、これからもまた、
やむなく人の心を傷つけて、自分がやんなって、
こうして自分は生きていくんだろうなあ、と思う。

人も自然の一部としたら、
自分の中から突き上がってくる感情とか、
どうしようもなかった人と人の出会いとか、
組み合わせとかの前に、
勉強とか、道徳とか、自分でどうにかできることは
限られてるような気がする。

それでも、そんな吹けばとぶような自分の手の中に、
吹けばとぶくらいの自由はある。

自分が傷つけられたとき、
憎悪や攻撃にあって、嫌な想いをさせられたとき、
自分の手に小さい自由が宿る。

自分が傷ついた。
でも、「だから、相手を傷つけていい」かどうかは別だ。
さらに、

自分はひどい傷つけられ方をしたのだから、
少々相手を傷つけてもいい。ということと、
だから、「自分が相手を傷つけたい」のかどうかは、
ぜんぜん別ものだと思う。

自分はほんとうに憎悪に憎悪をかえしたいのか?
ほんとに、ここで
相手を傷つけるという行き方を選びたいのか?
と考えて、
傷つけられても傷つけ返さないくらいの自由はある。

私は、きれいごとを言っているんじゃない。
何がきれいと思うかを、自分で選ぶ自由のことを
言っているのだ。

成城の街を散歩していたら、
どこもかしこも、判で押したように、ベンツに乗っている。
お金持ちになったら、
ベンツに乗らねばならないのだろうか? 
お金持ちになるほど、安い車からベンツまで、
自分の好きに選ぶ自由がひろがっていっていいはずだ。

同じように、ひどい傷つけられ方をした人は、
もうどんなに相手を責めてもいいと言えるけど、
責めねばならないわけじゃない。

だからこそ、自分はどんな行き方が美しいと思うか?

憎悪に憎悪をかえして、
やたら憎悪を増幅させていくような
行き方が好きじゃないなら、
その悪循環を自分で断つ自由も、
なにかまた別の行き方なり、
別の相手との関係をつくっていく自由も、
まだ残されている。

傷を負い、腹立たしさにうち震える中での選択だから、
寿司の松・竹・梅を選ぶようなわけにはいかず、
並み以下の限られた範囲の選択かもしれない。
それでも自由は自由。自分を傷つけた相手に何を返すか、
せめて自分の思う美しいで行かせてもらうよ、
と胸をはりたい。

加害意識と被害意識にがんじがらめになって、
身動きとれなくなってしまっていた私は、
「傷を見るな、謝るな」と言う言葉に、
それでもまだ、自分の美意識に応じて、
失わない自由な精神を、見ていたのかもしれない。





『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

2003-05-21-WED

YAMADA
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