YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson137 1人称がいない(7)


「1人称がいない」感じの文章を書く子は、
関係づける能力が育っていないのではないかという仮説で、
ここまできた。

自分とテーマの関係がつかめれば、興味がわく。
自分の想いと、書くことの関係がつかめれば、
想いを文章にあらわせる。
読み手と自分の関係がつかめれば、
人にわかる説明ができる。
そうやって、一つひとつのリンクがはれて、
はじめて、自分は外とつながっていく。

しかし、キソ的な関係づけに、つまずいたままでは、
せっかくなにか「想い」はあっても、
「テーマと自分は関係ない」
「書く意味はよくわからない」
「読み手はいない」、と
自分の存在まで宙に浮いてしまう。

結局、あるまとまりをもって、
自分を外とつなげられないから、
読む方も、そこに「人」の存在を嗅ぎ取ることは難しい。

日常生活でも、
関係性がうまくとれない、
どこかズレていると思う人と接するとき。
徒労感とか、消耗感を感じると、
読者から、すごくたくさんのメールをいただいている。
そのひとつを見てみよう。

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<インターンに来た大学生>

私は28才の大学院生です。
とあるNPOでアルバイトをしています。

この夏、大学生のインターンを4人受け入れ、
私が作業のお手伝いをしました。
仕事は資料の目録取りをさせたのですが、
3人は苦心しながらも
なんとか形になるものを作り上げました。

しかし1人は、説明しても、実演しても、校正しても、
のれんに腕押し状態で、ちっとも形になりません。
形にならないばかりか、目録は全面的にやり直しです。
私の説明が悪かったのかな……と思いつつ、
あとでこの仕事について提出されたレポートを見て
腰を抜かしました。

私が必死で説明した言葉が、
そのままレポートになっているではありませんか!

この説明が理解できていたならば、
なぜ目録が出来ないのか……?

自分のしてきたことが、
賽の河原に石を積んでいたように思えて、
呆然とした記憶があります。

(ももりんさんからのメール)

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ぎゃああああああ!
と、叫んでしまったメールだった。
これなどは、
「関係づけられない」ことの典型ではないだろうか。

ももりんさんの説明を、
この大学生は、すべて聞き取って、
完璧に記憶していた、ということだ。
はじめての仕事となれば、
知らない言葉も多数出てきただろうから、
この大学生は、
そうとう難度の高い、長い、口頭説明を聞き取る能力と、
記憶力に優れていたということになる。

そして、自分で聞き取り、記憶した説明と、
自分がやっている仕事とが、
まったく結び付かないことも、ある意味、すごすぎる。

こういう人いたなあ。

ものすごい量の、ものすごい難しい本を読むのだけれど、
ずっこけるほど、仕事ができないのだ。
視野が狭いと言うか。
(こういう言い方をするのは、失礼で気が引けるのだけど)
あの古今東西、読んだ本から得た、
ものすごい量の人の考えや、
知恵や、情報は、いったいどこへいくのだろう?

その人は、
本から得たお宝を、
目の前の仕事に関係づけることができなかった。

できなかったのか?
しなかったのか?

たぶん、自分にとって「無理めの状況」に、
自分を関係づけることを、
「しない」うちに、「できない」、になったんだろう。

その人の場合は、
「自尊心」とか「優越感」が、
「本から得た知識」と「自分」と「目の前の仕事」を
関係づけることを阻んでいたように思う。

自分にとって、「無理めの状況」ってなんだろう?

どっからどこまでが、自分と簡単に関係づけられることで、
どっからが「無理め」で、
どっからが「ありえないこと」になってしまうのか?

なにか、よりレベルの高い、より強い、
より素晴らしい方向にいくにしたがって、
自分との関係づけは、難しくなっていくと、
そう考える人は多いのではないだろうか?

例えば、男の人は、
どこからが自分にとって「無理め」の女か?

先ほどの、より美しい、で考えていくと、

近所の眉毛のつながったみよちゃんはリンクの範囲で、
街一番の美人の貴子ちゃんは「無理め」、
そして、女優の米倉涼子さんに至っては、
自分との関係づけなんて「ありえない」。
になるのだろうか???

わたしは、どうも、
そういう図式じゃないような気がする。

あの「本の君」にとって、
自分が読んでいる
ものすごく難しい本とのリンクは簡単で、
目の前にあった、
「そうたいしたこともなさそうな仕事」こそ、
自分との関係づけが「無理め」で、
「ありえなかった」のではないだろうか?

私たちの関係づけの能力は、
たしかに、距離の近いものから、
より遠いものを関係づけられるように、
易しいものから、より難しいものを関係づけられるように、
単純なものから、より複雑な関係づけができるように、
鍛えれば、鍛えた分だけ伸びていく。

自分の関係づけの力が高まれば、
自分がつながる「外」はグングン広がっていく。

しかし、自分の能力の高まりに応じて
自分の「外」が広がっていくということは、
自分が高度な関係づけが
できるようになっていくということは、
自分の能力に正比例して、
世に言う「ワンランク上」の仕事や、人や、物事とばかり
(ああ、「ワンランク上」って書くのもいやな言葉だ)
関われるようになっていく、ということとは、
ちがうのではないだろうか?

ももりんさんは、さらに言う。

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人間がそこにいなくなってしまう現象は、
理解能力の範疇を越えてしまった目の前の世界を
「なかったこと」にしているのではないだろうか。

かれらに共通しているのがガードが堅いということ。
自分の土俵から出ていかないこと。

自分が理解不能の場面に陥ったときにどう対応するか?

私なら、たぶん他者に意見を求めて、
とりあえずやってみるだろうと思います。

(ももりん)

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わたしは、これを読んで、
以前、紹介した、はるみさんのことば、

「この問題の根本は、子供達にだけあるわけでもないし、
 emailや携帯、テレビなどの
 コミュニケーションツールの問題でもない、と思います。
 少し断定的にいってしまうと、
 人々が‘自分が望む自分’と‘現在の自分’というものに、
 大きなギャップを抱いているからではないか、と思います」


という言葉のなぞが、少しだけとけたような気がした。

あなたにとって、
「無理めな状況」とは何だろう?
無理めでも、ありえなくても、
しっかりリンクをはらねばならないものはなんだろう?

これまで、
あなたが、理解不能の場面に陥ったとき、
そこを越えて、手を突き出して、
つかんだものは何だったろう?
 




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円

内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)
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2003-03-05-WED

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