YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson136 1人称がいない(6)

こんにちは、ズーニーです。
まず、この読者のメールからお読みください。


<存在を完全に消すテクニック>

今回の「一人称がいない」というテーマは、
子供の頃からずっと無意識に、
だれかにその核心を言い当てて欲しかったテーマ
だったように思います。

なるべくなら「自分で答えを出したいテーマ」です。

私は今21歳の大学生ですが、
小、中、高と、つねに学校のクラスの中に
その感覚を感じていたように思います。

例えばクラスの誰もしたくない委員を決めるときなど、

先生が挙手を求める時がありますよね。
そういう時、彼ら(「彼ら」なんて言い方は嫌ですが、
その時の彼らは「彼ら」としか言いようが無いのです)は、
個人を完全に消します。
一人一人はただの「生徒」という記号になって、
その集まりでまた「集団」という
記号を作り出そうとしている感じがします。

一人一人の個性は、
例えばその委員を決める取っ掛かりになるわけですが、
そういうものを全て消す事によって、
例えば30人クラスなら完全な「30分の1」となって、
ランダム性で身を守るという、
自分の身を守る迷彩服のような
「テクニック」なんだろうなあと。

本当に、みんな何故そこまでと思うほど、
完全に気配を消すんです。
純粋に、そのテクニックが熟練されているのです。
しゃべりませんし表情も出しませんが、
表情がないだけではなくて、
そこでは「何も考えない」ことが一番有効だ
ということを熟知して、実行している感じがしました。

「○分の一」の存在であることが
どれだけ便利かということについて、
皆知りすぎているのではないかという気がします。

結局精神的に追い詰められた自分が、
「や、やります!」とか言ってしまう事が何度も。
そう決まると、途端に皆深呼吸して
いつもの友達としての人間に戻るんですよね。

(読者 21歳の大学生さんからのメール)

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このメールで、存在を消すことを、
サバイバルテクニックと見ているのが新鮮でした。

若い人は、どっかで敏感に時代を嗅ぎとっている。

今までの世の中、
やっぱり「○分の一」の存在として生きるのが、
ラクだったのではないでしょうか。

私自身、80年代に
会社員という、
千何百分の1の存在になることを選びました。
企業も右肩あがり、
安定した収入があり、すみずみまで保障され、
仕事の規模は大きく、やりがいもある。仲間も多い。
そのくせ、自分がとるリスクはものすごく小さい。
当時、残業はきつくとも、どこかで
「サラリーマン天国」であることを感じとっていました。

20代のとき、私が、千何百分の1の存在を選んだのは、
まだ経験もなく、
突出した能力もない、弱い自分を守りつつ、
極力楽に、極力おおきく、
「自分を生かす知恵」だったのではないかと思います。

だから、おとなが、どんなきれいゴトを言っても、
こどもは、その敏感な臭覚で、
「○分の一」の存在になることのうまみをかぎとっていて、
日々、それようの訓練を積んできたのではないか、
という見方も成り立ちます。

そして、いま、ものすごく変わっていく時代の中で、
敏感な子どもは、
「これまでのやり方じゃだめなんだ」ということも、
とっくに、どっかでちゃんとかぎ分けていて、
着着と、次なる時代にサバイバルする術を、
磨いているのかもしれません。

サバイバルという視点で、
20代をニューヨークですごした「きりん」さんのメールを
見てみましょう。


<サヴァイヴァルするための武器>

私は20代をニューヨークで過ごしました。

東京という大都会で生まれ育った私にも
ニューヨークは本当に何もかもがものすごく刺激的でした。
暮らし始めた頃は、地面からエネルギー
が吸い取られていくような気がしました。

そこで私は自分を守るために
「セレクティブ・ヴィジョン」を身につけました。

簡単に言ってしまえば、
「見たいモノだけ見る」ということ。
自分の視界に入ってくるモノを
無意識のうちに都合のいいものだけにセレクトする機能。

そうでもしなければ、
自分がパンクしてしまいそうなくらい
色々なことや色々なものが一緒くたに起こっていて、
すべてをきちんと理解しようとか対処しようとかしていたら
何のために自分がそこにいるのか
判らなくなってしまいそうなくらい消耗してしまう……。
自分がこの町の餌食になってしまうような不安感。
まさにサヴァイヴァル。

成功者と脱落者が同居し、
美しいものと醜いものが溢れ、
多様な価値観がぶつかり合いながらも共存するしかない。
そんなところに、
自分自身の価値観も自分自身が誰なのかも
はっきりと判っていない者が飛び込んで、
とりあえずは自分をニュートラルなポジションに
キープすることで精一杯だったような気がします。

だから、今の若い子たちが意識及び無意識のレベルに
勝手に飛び込んでくるあらゆるインフォメーションで
オーヴァーロード状態になって
突然フリーズしてしまうというのも
有り得るかなとも思うのです。
何に対してもどうしていいのか判らないし、
とりあえず自分を必死に守るのが精一杯な感じが
「透明人間」みたいだったり、
他人の存在を無視するような
行動に出たりするのでしょうか…。

でも、私にとって、サヴァイヴァルするためには
コミュニケーションが最大の武器である、
ということを身を持って感じるようになったのも
またニューヨークでありました。

(読者 きりんさんからのメール)

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「見る」ということに関連して、
もう1通、このメールを見てください。


<見ることでわき起こる感情>

前回のコラムにあった、
「自分をとりまく周囲の事実関係を見つめると
何らかの気持ちがわきあがってくる」
という部分を、何度も何度も読み返しました。

何故なら、今の私の仕事のやり方と同じだったからです。

企画会社を経営しているのですが、
仕事の多くを「マーケティングリサーチ」が占めています。
以前、企業に所属していた時代から通算すると
その手の仕事は15年以上やっていることになります。

昔はいわゆる「マーケティング手法」なるものに当てはめて
アウトプットしていた時代がありましたが、
独立をきっかけに、
これまでのやり方を疑ってみる作業をしました。

今、私がこの仕事をしていく上で、
とても重要だと思っていることは「リアリティ」です。

それを使っている人、いない人。
それを使う場面。それがない生活。
それを売っている人。売られている現場。

実際に、見に行き、会いに行き、
その事実を自分の中にとりこむと、それこそ
ムズムズやらワクワクやらザワザワやらの感情が生まれます。

自分自身を「人間リトマス試験紙」にして、
反応したことを核に、
ことばや形にしてクライアントに提案する。
そんなやり方で仕事を続けています。

(読者 SEVENさんからのメール)

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わたしには、ちょっと都合がわるくなったときや、
ちょっと面倒くさくなったときに、

相手を見なくなる

ことがあります。
とくに対立したとき、相手の顔も見たくない、
声も聞きたくない、心境になることがあります。
そういうとき、相手から目をそらし、
心の中で相手とのコミュニケーションを遮断します。

そして、私が、今とこれからを生きていく上で、
このやり方は間違っている、と、
最近、はっきり思うようになりました。

いまの私にとって、サバイバルとは、
問題が起こったとき、どうやって状況をただしく判断して、
自分を生かす道を選ぶか、だと思います。

目をそらせば、相手からの視覚情報がなくなります。
話をいいかげんに聞いていると、
聞きまちがいが多くなります。

相手から入ってくる情報が減ると、
増えるのは「思い込み」です。
目をそらしているうちに、自分の中で、
相手はどんどん醜くふくれあがり、
本来、いもしないモンスターになっていきます。

自分を生かす判断をするためには、
やっぱり、相手に関する情報は多いほどいいし、
そのためには、コミュニケーションをとるしかないのです。

わたしは、そういうときは、
無理やりにでも顔をあげて、まず、相手を「見」ます。
みたくないという気持ちがあるので、かなりむりやりです。

見ると、視覚から、相手の情報が入ってきはじめます。
「あ、シャツのボタンがひとつとれてるな、
急いできたのかな」とか、
「目のあたり、疲れてるな、寝不足かな」とか、
「悪気でいってるんじゃないな」とか、
自分の思い込みとのブレが出てきます。

すると、すこしずつ相手の言葉を聞く余裕がでてきます。

そこで
「なんとか、聴こう。
 この人がほんとうに言いたいことは何なのかを、
 とにかく聴くだけ、さいごまで聴こう。」
と念じます。ききたくないので、これも祈るような気持ちです。

そして、瑣末なところに反応せず、
「相手がいちばん言いたいことは何か」、にだけ注意して、
最後まで聴き終わったとき、意外に問題は、
自分の思い込みの外にあることがわかったりします。

百歩ゆずって、「見ざる・聞かざる」で、
その場をのりきれたとしても、
私の場合、そのツケは、「相手への興味・意欲がなくなる」
という形でまわってきます。

相手からの新鮮で正確な情報を遮断して、
自分の思い込みでつくった相手に、
あらたな「興味」などわくはずがありません。

また、コミュニケーションをとらなかった、
ということは、自分にとって問題がある環境に対して、
何一つ、自分の「想い」をまぜることができなかった、
ということです。
自分の想いで何一つ関わることができない環境に、
意欲をわかせろ、というのもまた、無理な話です。
厳しい環境では、生きる意欲を失えば、自分でつぶれます。

コミュニケーションは最大の武器である。

サバイバルのために、
セレクティブ・ヴィジョンを身につけた
「きりんさん」が、
その果てに、究極のサバイバル術として
コミュニケーションに至ったのもうなずけます。

そして、SEVENさんの、
「実際に、見に行き、会いに行き、
 その事実を自分の中にとりこむと、
 それこそムズムズやらワクワクやら
 ザワザワやらの感情が生まれます。」
に、私はとても共感するのです。

私は、編集の仕事を10年ほどしたころ、
仕事も広がっていく気がしない、
自分も伸びていく気がしない、
いいようのない閉塞感にとらわれたことがあります。
そのとき、自分の小さな殻を打ち破る引き金になったのが、
読者に会いに行くことでした。

自分が編集したものが、実際に、
どんな人の、どんな生活で、どう読まれているか、
淡々と、「見る」ことでした。
このとき、見ることが私なりの限界突破のキーになり、
外界への意欲(=生命線)の着火点になったのです。

(つづく)

 




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山田ズーニー著 PHP新書660円

内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)
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2003-02-19-WED

YAMADA
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