YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

美容院。

カット以外のシャンプーやカラーリングは、
見習いの若い子たちがやる。
この子たちとコミュニケーションをとるのがなかなか難しい。

たとえば、シャンプーするときに、
いきなり熱いお湯で洗われたので、
「熱いんですけど」というと、
「すみません」じゃなくて、

「あ、そうですか?」

といって湯温を低くする。
次にすすぐときに、
またむちゃくちゃ熱いお湯をいきなりかけるので、
再度「熱いんですけど」と言わなくてはならない。

接客業を職業に選んだ子たちであるはずなのに、
彼らの中に客と結びつくような「接点」が感じられないのは
どういう訳なんだろう。

「若者との感覚のずれ」が自分にあるのかと思ったり、
「気が利かないのは経験が浅いからだろう」と思ったり、
「まだ若いから自分の意思をうまく伝えられるだけの語彙を
持ち合わせていないんだろう」と思ったり、

美容院のイスに座っている間中、悶々としていました。

(読者Pさんからのメール)


Lesson132 1人称がいない(2)


こんにちは、ズーニーです。

先週のコラムには、ひきつけられるメールがたくさんきました。
まず、こんな光景に、目が釘付けになりました。

<フリーズする子ども>

ボクは家庭教師をしています。
相手は中学校3年生。

ときどき彼は「フリーズ」します。

パソコン用語をあてはめるのもどうかと思いますが、
前からこう呼んでいます。
目が動かず、視線が分散?していて
どこをみているのかわからない。
体も特に動かない。
質問しても答えない。
うなずくことも首を横に振ることさえもない。

どうしたの?
むずかしかった?
頭痛いの?
トイレ?
ちょっと大丈夫?
おい…返事しろ返事…?
おーい○○くん? ちょっと…?

やっと彼は動き出します。

が、それまでのボクの質問がまるでなかったかのように
消しゴムをいじりだしたり、つめをいじりだしたり…
これにはかなりまいってしまいます。ん〜…

(読者、シンジさんからのメール)


…………………………

この感じ。

もちろん、相手はそこにいる。
なのに「いない」。

まだ、こどもだから、
うまくできなかったり、困ったり、
緊張でコチコチになったり、
はずかしくって逆に怒ったり、黙りこくったり、
ということはある。

でも、それは、
困っている子が、困りながらそこに居るんだな、
緊張でコチコチになった子がそこに居るんだな、
という感じなのだ。

そうではなく、この、「いない」感じは何だろう?

私も、高校生の文章で、
これと重なる現象に出くわしていた。

ちゃんと自分の意見を確立していない、とか、
言いたいことがわからない、とかいう次元ではない。
書き手そのものが「いない」、感じなのだ。

そういう文章にでくわすと、
私の中から、なにか、
はがゆいような、腹立たしいような感じがわきあがってくる。
もちろん、冷静にならないと指導はできないから、
「まだ、書きなれてないだけだ」
など、いろいろに考えて忍耐する。
場合によっては、スニーカーをはいて、
外をグングンあるいて気分転換する。
気をとりなおして、ナビゲーションを書く。

でも、また、そういう文章に出くわす。
また、同じような気持ちがわきあがり、
また、同じように忍耐し、気をとりなおして向き合い…
を繰り返すうち、私は、とても消耗していく。

そういうとき、
ヘタでも、少々はずれたことを書いていても、
ちゃんと書いた人が感じられる文章、
まるで、書いたその子の
声が聞こえてきそうな文章に出会うと、
一発で、身体もスカッ!と元気になる。

なぜなんだろう。
自分は、たくさん文章を読んできて、
もっと、ひどく文章が書けない子は見てきた。
「年寄りはきたない」のようなひどいことを書く子もいた。
それでも、怒ったりはしなかった。それに、
これらの文章は人がいないだけで、悪意はないのだ。

うまく説明できないのだけど、そのざらつきは、
最初にあげた美容院の例と、私の中で重なる。
わたしも、Pさんと同じような経験をした。

見習いの人が、
髪をあらってくれても、「はい」と言っても、話をしても、
どっか遠い、「接点」のない感じ。
それを、肯定的にとらえようとして、
でも、違和感が波紋のようにひろがるばかりで、
でも、悪くとるまいとして…、をやっているうちに疲れていく。

いつもの美容師さんが、
「おまたせ! 山田さん、今日はどんな感じにする?」
とあらわれると、気持ちが一気に晴れる。

家庭教師をしているシンジさんも、やはり、
その中学生に、イライラしたり、
いらだった自分がイヤになったりしたと言う。
でも、辛抱と、工夫の結果、
いまでは、教え子とのコミュニケーションは
ずいぶんラクになってきたそうだ。

この、「いない」感じは何なのか?

日ごろ、友だちとは、
「私は…」「ぼくは…」とよく言っている十代なのに。
彼らの、「私」「ぼく」はどこへ消えちゃうのだろう?

そして、私はなぜ、こんなにざらついているのか?

読者の「はるみ」さんからのメールに、
謎を解くヒントが、つまっていた。
それは、こんな書き出しではじまる。

<都市に人がいなくなる>

私は人類学を勉強している学生です。

私が興味を持っているのは、
「都市に人がいなくなる」という話しです。

こんなに人口過密な現代都市に、
「人がいなくなる」とはどういうことかといいますと、
例をあげると、
地下鉄の座席に座ったままお化粧している女性を
見かけたりしませんか?

お化粧は本来、だれかに会う前にする身繕いですから、
地下鉄に乗り合わせている私たちには、
彼女は「会っていない」ことになります。
また、私たちは彼女のお化粧の様子を見ていますが、
彼女にとっては「見られていない」ことになります。
まるで彼女の部屋のつづきのよう。

彼女にとって地下鉄は、
自宅から誰かに会う場所までの
単なる移動中の「通過点」で、
彼女の「存在」する場所ではないのです。

彼女のこれから行く、会社か、学校か、
あるいはサークルの仲間かも知れない。
その人間関係においてのみ、彼女は「存在」するのです。

反面、昔の街といえば、
だれもがお互いの存在を知っていました。
「どこどこの誰々ちゃん」と。
そして会えば挨拶をする。
「どこに行くの?」などとひとことふたこと、声をかける。

身体と身体、眼と眼の会った人とコミュニケートする、
それが身体的「場」です。

昔の街とは、
人間同士の身体コミュニケーションがつくる
「場」であったのです。

現在は、それに比べてどこもかしこも「通過点」
なのかもしれません。

(はるみさんのメールより)

…………………………

と、ここまでを読んで、私は、
「人間になれないのは、私?!」と、まず、思った。

私は、1人称がいない文章を読んで、
「まだ、人間になれないような感じ」
と感想をもらしていた。

文章の中で、もし、
この「地下鉄でお化粧」と似たことが起こっているとすれば、
書き手にとって、私は、「いない」ことになっている。
つまり、私は、人間というより、
電車のつり革とか、中吊り広告に近い存在だ。

読者の「悠花」さんは、
「コミュニケーションとは、自分が発したサインに対して、
 対象から、何らかの反応があって成立するもの。
 ズーニーさんが感じた消耗の裏には、
 私が人として認められていないという悲しみと憤りを
 含んでいるのではないか」と言った。

同じような指摘を他の方からもいただき、
ざらつきの1番目の要素は、
相手がそこに「いない」ことより、
ここにいる私を「見ていない」ことへの
「寂しさ」だと気づいた。

わたしは、寂しかった。

この問題に、とくに敏感になりはじめたのは、
ちょうど会社を辞めたころからだ。

自分が、その場に「いる」、とはどういうことだろう?

自分の中だけで何か「想って」いても、
まだ自分は、その場にいることにはならない。

そこで、自己表現することが必要になってくる。
自己表現は、言葉だけでなく、
行動とか、着る服とか、表情とか、
からだ全体を通してできるのだと、はるみさんは言う。

そうやって表現して、はじめて、まわりの人が、
「あ、山田さん、あんな面白い服着てる」
「あ、山田さん、あんなえらそうなこと言った」
「あ、山田さん、ずっこけた。おかしーい!」
と、私を見て、反応を返してくれる。

私は、そういう人の反応で、
自分を客観的に見る。
「自分はえらそうに見えちゃった。
 でも、ほんとはちがうぞ、こんなこと考えてるんだ」
とまた、自己表現をする

また、それに反応が返ってくる。
それで自分を認識して、また、自己表現する。

この繰り返しによって、
しだいに、自分という存在が、
その「場」に立ち上がってくる。
まわりの存在も、自分にとって人として立ち上がってくる。

そうしてできた場には、
疑いようなく「自分」がいるし、人が「いる」。
相手が無反応では、決して「場」は成立しない。

私は、15年以上を費やし、
そうやってつくった、会社という「場」を離れた。

つぎ、そういう場を立ち上げるまで、
目と目で通じ合い、身体と身体でコミュニケートできる
「場」はないのだ。

わたしが、日常の大半をすごす、
東京の仕事部屋に「人はいない」。
そして、みんなにとって、通過点に過ぎない
電車の中、都市、が私の行動範囲だとすれば、
そこには、「人がいない」ことになる。

その上、文章の中にも、
私を感動させたり、てこずらせたりする「人」がいない、
というケースにでくわせば、
「寂しさ」を感じても自然である。

私は、やっぱり人と通じ合いたい。
そして、住みたい街は、こうではないという想いがある。

「寂しさ」は、確かにある。
でも、私がざらつくのは、それだけではない気がする。
相手が、まだこれからの「若い人」であることなど、
何か、いままでずっと教育にたずさわってきてこその
ざらつきだ、と感じる部分がある。それは何だろう?

はるみさんは、さらに、
いまの都市は「隠れる」ことができるのだ、という。

地下鉄の化粧のように、
自分をその場に「いないこと」にする。

そして、十代の人も、
気詰まりになったときに、自分をその場から
消し去る方法を知っているのだと。

その方法とは何か?
彼らは、どこへいっちゃうのか?
そして、おとなでなく、こどもがこれをやると
どうして危険なのか?

次週、いただいたメールを手がかりにさらに考えてみようと思う。

(次週水曜日へつづく)

読んで、なにか、感じることがあったら、
どんな小さなことでも、関係あるかどうかわからないことでも
かまいません。手がかりを必要としています。
どうか、メールをください。          




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円

内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)
bk1http://www.bk1.co.jp/
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山田ズーニー先生への激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニー先生へ」と書いて、
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2003-01-29-WED

YAMADA
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