YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson114  信頼関係はどうつくられる?


「就職活動をしている人を励ます」ということで、
ある出版物にコメントを書いた。
就職活動中の人の多くは、とても疲れているそうだ。

どうして就職活動って、あんなに苦しかったんだろう?

面接で、自分の長所は? と聞かれ、
自分を、つい、良く言いすぎても、
逆に言い足りなくても、
あとから、なぜか、落ち込む。
面接官に冷たい態度をとられると、
自分という人間までが、否定され、侮辱された気分になる。

大人にとっても、これは過ぎ去ったことではない。

異動や昇進試験、はじめての取引先、初対面の人、
そういうときに自己表現をもとめられ、値踏みされ、
感じる「おっくうさ」は、就職活動と地続きだ。

フリーランスというものは、
1回の仕事ごとに就職、仕事が終われば退職を
繰り返しているようなものだ。
私も最初は、いちいちが大変だった。

わたしが、ずっと小論文をやってきた人間ということで
「お会いしてお話しでも……」という人がいる。
喜んで会いにいくと、やつぎばやに質問だけをぶつける。
私から話そうとすることは聞かない。
私のことをまるで、ボタンをおせば、
小論文の知識・情報が
自動的に出てくる便利器具のように扱う。
しかも質問内容も、研究調査に何年もかかった
小論文の根本をなすことばかりだ。
それを、簡単に、具体的に、いますぐこの場で出せという。
聞きたいことだけ聞き終わると
「じゃ」とさっさと返っていく。
なにかむしりとられたような気分になる。
自分のささやかな経験を、無償でシェアすることは、
わたしはちっともいやではない。
でも、こういうむしりとられ方には傷つく。
なぜだろう?

フリーランスというだけでいぶかしがり、
「どこの馬の骨か」、遠まわしに、
しかし、執拗に質問を繰り返す人もいる。
「これからやる仕事の質で判断してくれ」と言いたいが、
「私は13年高校生の考える力・書く力の育成に
 携わってきて…」
と説明する。
でも、そういう内容的なことに
そういう人は興味がない。
肩書きは? 所属は?
そういう人の納得ラインはどうも、
「元B社の山田さん」ということらしかった。
なら最初から、自分でそういう伝え方をすればいいのに、
したくないのは、なぜだろう?

かといって、自分以上に、
もちあげられたり、褒められたりは、
孤独感が強まり、虚しい。
なぜだろう?

あとから考えると「あんな奴」という相手にも、
通じ合おうと最善の努力をし、それができないと、
ひどく残念がっている自分がいるのは、なぜだろう?

なぜ、なぜ、なぜ……と問いつづけ、
自分は、自分以下に見られるのも、
自分以上に見られるのも、
部分的な機能だけで見られるのも、傷つくのだ、
それ以前に、「何者か?」と疑われ、試され、
値踏みされる行為自体に、すでに傷つくのだとわかる。

ここには、互いの内面に基づく「信頼関係」がないからだ。

会社にいたころの私は、
B社が社会的にもつ信頼のベースに生かされ、
いきいきと、その先の関係をつくっていけた。
しかし、辞めて、自分一人で、
入り口の、未知の人に信用されるところから
つくっていくとなったら、
なにもかも、いちいちが大変で、
いちいちがとても苦しかった。

でも、自分の潜在力を生かすという点で、
この時期ほど鍛えられた時期はない。

就職に翻弄され、疲れていく若者は、
最初、弱いのかと思った。
しかし、彼らが、傾向と対策、うそで固めてでも、
内定という結果だけを求めているなら、
そんなに苦しくはないはずだ。

そうではなく、自分の内面を表現した上で、
認められ、受け入れられることを無意識に求めている。
だから、全人的にかかわろうとする人ほど、
正直な人ほど、うまくいかなかったとき
受けるダメージは深いのだ。
疲れるのもあたり前だ。

彼らの志は高い。
少なくとも、自分の内面で、人や社会と関わり、
信頼関係を築いていくことこそ、「自由」だと知っている。

その先には、多くを語らなくても、
「あなたはこういう人だとわかっている。信頼している」
という全幅の信頼がある。
これがあるというのは、なんという幸せなことだろう。

全幅の信頼。

私は、そういうものは、
何年もかけて、じっくり育てなくては
つくれないものだ、という持論があった。

それがフリーになって1年もたたないうちに、
あっさりと崩されてしまう。
生まれてはじめての本を書いたとき、
その編集者さんとは、
たった1回、数時間のミーティングで
もう、信頼関係ができていた。
本を一冊つくる、しかも、
はじめての書き手と編集者となれば
その関係は、たいへんなものだろうと想像していた。
ところが、以降、本の完成まで、
たった一瞬も、この信頼関係が揺らぐことはなかった。

相手に全幅の信頼を置いていることに自分でさえ驚いた。
どうして、短い時間で
これほどの信頼ができてしまったのだろう?

一番最近では、先日、文章術で出させていただいた
NHKラジオのディレクターさん、アナウンサーさんに
放送中、私は100%の信頼を持った。
やはり、そのことに自分で驚いていた。
この100%という感覚は、
なかなか長い付き合いでも得られないものなのだ。
なぜ、6割や8割でなく、100%なのだろう?
まだ2回しかお会いしていないのに。

築くのに時間がかかり、もろい信頼関係、
わたしも、いつも苦しみながら求めている信頼関係を、
こんなに短期間に、つくってしまえる人がいる。
「プロフェッショナル」という言葉が、頭に浮かんだ。
プロフェッショナルとはなんだろう?
私から見て、この方たちのとても大事な共通点がある。

それは、「よく聞き、読む人」だということだ。

はじめて書いた本の編集者さんに、はじめてお会いした時、
この「おとなの小論文教室」のコラムすべてを
出力してもってこられた。
まず、その量に驚かされた。
しかし、驚くのは、それからで、読解の深さ、と、適確さ。
ことさらそれをアピールされることはないのだが、
ことあるごとに、私が過去に書いたものを、
いかによく読み、理解してくださっているかを、
思い知らされた。

今書いている本の編集者さんも、
やはり、コラムすべてを出力してもっておられ、
整理のために、その主要部分にタイトルをつけておられた。
そのタイトルが、書いた本人より適確だったのに驚いた。

この方たちが、どれだけ長い月日、
どれだけのものを、どういうふうに読み、
読むという行為を自分なりにどう育んできたか、
筆者理解をどうつきつめてきたか、その片鱗を垣間見た。

ラジオのディレクターさんも、私がアイデアにつまると、
さりげなく、私の本のあの例はどうか、
本のほうもいいけれど、
「ほぼ日」のコラムの表現のほうが
リスナーに伝わるかな、とアドバイスをくださる。

本番中、寄せられたFAXの答えに窮していると、
アナウンサーさんが、ほんの数秒の間に、
「ズーニーさん、本の頭の、あの17歳の女の子の例、
答えにつかえますよね」とサポートしてくださる。

つまり、お二人とも、私が書いたものが、
完全に頭にはいっているのだ。
アナウンサーさんに、事前にお渡しした、
当日私が話したい内容の構成メモには、
何色ものマーカーと、びっしり書き込みがされていた。
それをどれくらい深く読んでくださったか、
一目でわかった。

人に言葉をかけるとき、
自分のなかの相手への理解度が
どうしてもあらわれてしまう。

相手以上に、買いかぶっていれば、相手は違和感を持つし、
相手以下に、あなどっていれば、相手は傷つく。
どちらにしても相手は、理解されていないと思い、
同時に自分を信頼することはない。

しかし、相手からくる、どの言葉も
正確な自分への理解を根に、
繰り出されていたとしたら……?

その言葉は、余分な違和感なしにまっすぐ自分を打つ。
自分のことは、自分がいちばんよくわかるからだ。
そのいちばんわかるところに、
正確な理解のパンチが繰り出されたら、
たった1発で、相手を信頼することだって
あり得ないだろうか?

自己アピールやプレゼンの技術がもてはやされている。
みな、自分を理解されたいと望んでいる。
しかし、自分を信頼させたり、
未知の相手に対して、
信頼できるかどうか問いつめることよりも、
相手の言葉をいかに深く聞き、読み、理解していくのか?
読み解く技術、かつ、
読んだものの価値を判断する自分の軸を
育てていくことの方が先ではないだろうか?

あなたは、相手が本当に言おうとしていることを、
読み・聞き・理解する力、自信はありますか?




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円

内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)
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2002-09-25-WED

YAMADA
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